宮下恵茉・作 染川ゆかり・絵『キミと、いつか。』(集英社みらい文庫)シリーズ1~4を読む

4月25日(火)

この作品はシリーズもので、同じ中学校で1年生の同じクラスの女の子たちの初恋模様が描かれている。現在、第4作まで出ており、4人の女の子たちの1学期の恋が描かれた。今後は2学期の恋愛模様が描かれるらしい。第4作まで読んで、何だかオムニバス映画を観終わったような感じがした。同じ中学校の同じクラスで登場人物も重なるのに、ヒロインが交代するだけでこんなに世界が違って見える。どのヒロインも周りから見るとうらやましくなるような恋愛をしている。でも本人たちにしてみれば、初めての恋はとても大変なことなのだ。

最初のヒロインが少女まんが好きというのは、作者の仕掛けなのかなと思う。少女まんがのような恋に憧れる少女が、実際に恋をしてみると少女まんが通りにはいかないことに悩んだりする。読者が「いや、このストーリーは少女まんがでしょう」と思っても、少女がそう思っていないのだからしかたない。やがて読者はこのストーリーを現実に起こっていることのように感じてしまい、少女の恋を応援したくなる。

1学期は恋が成就するところまでの物語だった。さて2学期はどうなるのだろう。物語は続く。

(4月21日読了)

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みずのまい・作、U35(うみこ)・絵『たったひとつの君との約束~また、会えるよね?~』(集英社みらい文庫)を読む

4月2日(日)

この本を間違って買ったことに気づいたのは2月の末のことだった。同じ集英社みらい文庫の別のシリーズを注文したつもりだったのに、まったく別の作品だった。買ったのは昨年の11月頃だったから気づくのに3ヶ月かかったことになる。今さら返本もできないしこの際だからと読むことにした。

小学校高学年から中学生の女子向けの物語で、漢字にはすべて振り仮名が振ってある。また所々に少女漫画のような挿絵があって物語のイメージを頭に浮かべやすくしてある。集英社みらい文庫では、初めて長い物語を読むような子たちでも読み進められるように、様々な工夫をしているように見える。

読後感は何だか昔、妹の買っていた少女漫画を読んだ後のような感じがした。ヒロインは入院中の病気の少女で、暗い気持ちだったその子の前に元気でかっこいい男の子が現われる。少女は少年に恋をする。その恋が成就するまでに、少女が乗り越えなくてはならないことの描写が作者の腕の見せ所である。

昔の少女漫画と違うのは、病気の少女だからと言って悲劇のヒロインではないことだ。完全に治るのが難しい病気にかかっていても、少女はふつうの少女である。病気が暗い影を落とすことはあっても、それは決定的な悲劇をもたらすものではない。こういった物語の変化には、背景に医学の進歩があるのかもしれない。

この作品は出てすぐに重版になり、今年の2月には早々と続編が出ている。二人の恋の行方が気になるので、今のところ続編も読んでみようかなという気になっている。間違って買った本だけど、いい出会いだったと思う。

(3月30日読了)

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鬼界彰夫著『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書)を読む

3月26日(日)

ウィトゲンシュタインの哲学については、だいぶ前に永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)や飯田隆著『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』(講談社)を読んだり、初期の主著の『論理哲学論考』(岩波文庫)や野矢茂樹著『「論理哲学論考」を読む』(哲学書房)を読んだりもしたのだが、よく理解できないまま、先の著作へと進めないでいた。

この本は、2000年にウィトゲンシュタインの遺稿がすべてCD-ROM版として刊行された成果に基づいており、そのため、これまでは神秘的で謎めいた言い回しと思われていた言葉も、その前提となる手書きのノートやタイプ原稿をつなげて読んでいくと、ある哲学的主題についての継続した思索の最終的に洗練された表現であることがわかるようになった。

それでもわたしにはかなり難解な内容だったが、2か月くらいかけて読み終えてみると、以前よりはすっきりしたような気がする。と同時に、ウィトゲンシュタインの到達した認識に、なぜか身のすくむ思いがした。1人の人間が思索を進めて、言語と私の根源に到達した。もしかしたらそこは人間の深淵の底なのかもしれない。

 

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ブログ再開―読んだ本5冊―

2017年2月9日(木)

昨年の9月半ばにパソコンが壊れて修理に出してからブログを書く習慣が途切れてしまい、今まで更新してこなかった。その間にも何冊か本を読んできたので、その感想を記しておきたい。短い感想をTwitterに残しておいたので、今回はそのツイートをベースとする。本を読んだ感想は読んで数日以内には残さないと、印象が薄れて中々文章として書けるまでにはまとまらないものだ。少なくともわたしはそうである。

1. 春日太一著『鬼才 五社英雄の生涯』(文春新書)

綿密な取材と著者の熱量とが噛み合って、抑制の効いたいい評伝となった。もし五社英雄が自伝を書いていたらどんな自伝になったのだろう。そう思わせてくれる評伝でもあった。(2016年9月12日読了)

2. 小林敏明著『廣松渉―近代の超克』(講談社学術文庫)

難解さで名高い廣松哲学のエッセンスを解説するとともに、日本思想史の文脈で論じたもの。戦前の近代の超克論、戦後の近代主義、ナショナリズムとインターナショナリズム、そして廣松の近代の超克。各々の関係が明確に示されてスッキリした。(2016年10月8日読了)

3. 筒井康隆著『モナドの領域』(新潮社)

哲学の根本問題である存在と時間の問題に、80歳になったSF作家がSFの形で解答したのがこの作品である。同時にいわゆる「神」が主人公の小説を、その小説世界の神である作家の視点から描くという、不思議な視点の小説となっている。(2016年11月4日読了)

4. こうの史代著『この世界の片隅に 上中下』(双葉社)

アニメの画は水彩画のような味わいだったが、原作の漫画はクレヨン画のような味わいで『夕凪の街 桜の国』とも違う。この漫画は歴史の書であると同時にすぐれた民俗学の書でもあると思う。戦時の人々の暮らしが丹念に描かれることで、人間の生の諸相が断層のように浮かび上がってくる。生きるとは何と残酷なことなのだろう。だが何と豊かなものなのだろう。(2016年11月29日読了)

5. 梶尾真治著『美亜へ贈る真珠』(ハヤカワ文庫)

デビュー作の表題作を含め全8篇の短編集。主に時間SFと恋愛を絡めた物語なのだが、これまで長編の梶尾作品ばかり読んで来たせいか、短編はそのエッセンスが濃縮された味わいがあった。(2017年1月10日読了)

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本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ著『ユマニチュード入門』(医学書院)を読む

9月9日(金)

ユマニチュードはフランスで始められ、日本でも最近注目されるようになった認知症ケアの新しい技法である。ユマニチュードという言葉は、ユマニ+チュード=人間+である状態と訳せる。人間を人間としてケアするのがユマニチュードということになるだろう。

人は自然な感情のままに認知症の人をケアしようとすると、えてしてモノや動物のように扱ってしまう。だが、どれだけ認知レベルが下がった人に対しても人として対すべきというのがユマニチュードの考え方である。そのためには自然な感情のままではダメで、ケアする人の意識を変え、訓練によってケアの技術を身に付けることが必要とされる。ユマニチュードの技術は150を超える。

実際に父母が認知症になったら、ユマニチュードの考え方に則ってケアをしていけたらと思う。ただ、この本を読んだだけですぐ実践できるとはとても思えない。何らかの講習の制度ができて、誰でも基本的な考え方や実践技術を学べるような制度作りが今後必要になってくるだろう。

(8月20日読了)

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和田彩花著『美術でめぐる日本再発見』(オデッセー出版)を読む

8月24日(水)

副題は「浮世絵・日本画から仏像まで」。この本は著者の2冊目の美術本である。アイドルであり美術史専攻の学生でもある著者は、メディアプロデューサーの櫻井孝昌という理解者と出会い、ネット上で西洋美術についての連載を始め、その最初の成果は『乙女の絵画案内』という本として出版された。それは現役アイドルである著者ならではの視点での西洋絵画案内だった。

この2冊目の本も櫻井氏のプロデュースでまずネットでの連載が始まり終了後に本としてまとめられるはずだった。だが、連載が終わってから間もなく櫻井氏が鉄道事故で亡くなってしまう。昨年の12月4日未明のことだった。ファンの間では、彼の死を悼むと共に、はたして本の出版はあるのかという心配の声が上がったが、本は無事出版された。

出版されるまでの経緯がどういうものだったのかは明らかにされていない。だが、一冊目と異なり出版元はアイドル本や写真集を多く出している会社だった。そのせいか、著者の文以外に写真も多く、フォトブックエッセイのような形になっている。はたしてこれが櫻井氏の望んだ形だったのかは今ではわからないが、プロデューサーとして彼の名は本に記されてしまった。

内容は、アイドルであり美術史専攻の学生らしい独特の視線での浮世絵や日本画、仏像の解説になっている。特に注目すべきは浮世絵解説の独自性で、そこから浮かび上がるのは江戸時代の浮世絵文化と現代のアイドル文化との共通性であり、江戸時代の女の子のかわいさである。

明治時代になり浮世絵とそれを担った江戸文化は廃れて文明開化の時代が来る。著者は浮世絵を通して、文明開化の華やかさの影で失われた文化の豊かさに気づく。そしてそれが西洋で発見されて印象派絵画へとつながり、その絵画に自分が出会ってしまった不思議さに思いをはせるのである。

(7月21日読了)

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宇田亮一著『吉本隆明『共同幻想論』の読み方』(菊谷文庫)を読む

7月23日(土)

思想家・吉本隆明の主要な作品には、『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』の3作品があるが、いずれも難解である。この本ではそのうち『共同幻想論』についてこれでもかというくらい噛み砕いてわかりやすく解説している。それでいてその思想のレベルを落としていない。『共同幻想論』を著者のように理解できると、吉本の他の著作へと連なる思想の芯が理解でき、初期の作品から後期の作品までを一気に見通す展望を得ることができる。

わたしが初めて『共同幻想論』を読み終えたのは1982年の7月17日だからそれから34年が経ったことになる。その間に折に触れて吉本の他の著作や吉本論の本や解説本を読んできた。吉本の本は難解だし、吉本論も解説もけっしてわかりやすくはない。魅力的な思想家であるという直感はあってもわたしの理解力ではまだらな理解に止まっていた。

それがこの本を読んだことで、今までのまだらでポツポツとした理解が一気につながって広い面になったような気がした。登山していて暗い森を抜けると尾根から今まで登ってきた所の全景が見えるような感覚だった。

また吉本の著作と格闘してみたい気持ちが沸き起こっている。そんな気持ちにさせてくれた本書と著者に感謝したい。

(6月25日読了)

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小保方晴子著『あの日』(講談社)を読む

6月8日(水)

著者は2014年1月のSTAP細胞の発表で一躍時の人となり、その後、論文のねつ造が指摘されて、最終的には論文の撤回と理化学研究所からの辞職を余儀なくされ、表舞台から消えていった。この本は、いったいどうしてこんなことになったのかを著者自身が自らの学生時代や研究生活を振り返りながら、書き記していったものである。不安定な精神状態の中での執筆であることは窺えるが、少なくともごまかしたり言い訳したりする意図はないという印象を受けた。

著者は研究者の卵としてかなり優秀だったようで、後にSTAP現象と呼ばれる、刺激によって細胞が初期化される現象もハーバード大学の医学部での研究生活の中で発見している。

その現象の生物学的意義を探求したいというのが著者の志であったが、一流誌に論文を載せる努力を続ける中で何人もの研究者と関わることとなり、研究がおかしな方向に進んでいく。その結果、iPS細胞を超える世紀の大発見という形で世に発表されることとなったのである。

著者を信じる限りでは、STAP現象と呼ばれる生命現象はあるものと思われる。だが、著者の関わっていない、特殊な手技が必要とされるSTAP幹細胞からキメラマウスを作り出す過程に謎が残る。STAP幹細胞だったはずのものがなぜES細胞とすり替わっていたのか。著者ではなく誰かが意図的にやったのだとしたら誰がしたことなのか。著者が特定の個人への強い疑いを抱いているのは確かである。

いずれこの事件全体の謎が解ける日が来てもらいたいものである。

(5月4日読了)


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梶尾真治著『クロノス・ジョウンターの伝説』(徳間文庫)を読む

5月10日(火)

熊本在住のSF作家・梶尾真治の代表作と言えるシリーズで、演劇集団・キャラメルボックスによって何度も舞台化されている作品である。以前から気になってはいたのだが、昨年2月、徳間文庫として作品が一冊にまとめられたのを機に読んでみようと思い立った。だが、それから実際に読み始めるのに1年、こうして感想を書き始めるのにさらに3ヶ月が過ぎてしまった。

その間に著者の一家は熊本の震災に巻き込まれ、一時、避難生活も余儀なくされた。ちょうど新作『杏奈は春待岬に』を出版したばかりだった。

この本では、クロノス・ジョウンターと名付けられた開発途上の物質過去射出機に乗り込んだ人たちの様々な軌跡が描かれる。この機械には重大な欠陥がある。一度過去へと射出されたら二度と現在に戻れず、しばらくすると過去の時点から反動で未来へと飛ばされてしまうのだ。それだけに乗り込もうと決意した人たちの想いはそれぞれに切実である。

わたしにはあの日に帰って人生をやり直したいという特定の日はないけれど、たとえば、もう見られなくなったTVドラマを、その時代に戻って見てみたいというような願望はある。物語の主人公たちの想いはもっと切実だけど、それはわたしのようなホンワカした願望とも確かに共鳴している。

実は『杏奈は春待岬に』でも”クロノス”が関わっているらしい。クロノス・ジョウンターの物語はまだ完結していない。

(2月19日読了)

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カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』(早川書房)

2月9日(火)

翻訳は土屋政雄。カズオ・イシグロの本は英語で読みたくて、この作品も『Never Let Me Go』の方も買っていて、いずれ読もうと思っていたのだが、TBSのドラマで「わたしを離さないで」が始まることを知って、ドラマに間に合うように翻訳版の方を先に読むことにした。翻訳者の土屋政雄は著者のブッカー賞受賞作の『日の名残り』(原題:The Remains of the Day)の方も訳していて、この作品の翻訳も読みやすかった。

著者は1954年に長崎に生まれたが、1960年から父親の仕事の関係でイギリスで暮らすことになる。そして1982年に『遠い山なみの光』(原題:A Pale View of Hills)でデビューする。この作品は日本からイギリスに移り住んだ女性が主人公で、舞台は80年代前半のロンドンの郊外の屋敷であるが、女性の記憶の中の50年代の長崎のできごとも描かれる。

わたしはこのデビュー作を英語で読んだ。長崎のことが英語で描かれていることが何だか不思議だった。終わり近くになって、語り手に対する信頼を揺るがすような記述がさりげなく挿入されて、信頼できない語り手による物語という小説手法を初めて知った。著者は小説の仕組みや物語の構造についてかなり自覚的な作家である。

『わたしを離さないで』は2005年に発表され、翻訳は2006年に出た。著者は作品ごとに作風を変えることでも有名な作家であり、この作品も今までのどの作品とも似ていない。わたしはいきなり冒頭でとまどってしまった。

―わたしの名前はキャシー・H。いま31歳で、介護人をもう十一年やっています。ずいぶん長く、と思われるでしょう。確かに。―

最初の扉には1990年代末、イギリスと書いてあったのに、まるでSF作品のような出だしである。なぜ名前をHと略してあるのか。介護人とはどんな仕事なのか。それを11年続けることは長いことなのかと次々と疑問がわいてくる。その疑問を抱えながら読み進むとそこには、現実にはありえないことなのにそれを現実のこととして受け入れている人々の世界が開けてくる。

読後には何だか不気味な感じが残った。こんなありえない世界からなぜ人々は逃げ出そうとしないのだろうというもどかしさが残った。だが、人類はすでにホロコーストと原爆という、起こるまではありえなかったはずの現実を経験しているのである。

(1月30日読了)


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