2013.05.04

映画『リンカーン』を観る

5月4日(土)

1日(水)の映画の日に、新宿ピカデリ―で映画『リンカーン』を観てきた。リンカーンの伝記風な物語でないことは事前に予告編を観ていたのでわかっていたけど、実際に見てみると、有名なゲティスバーグ演説よりも後の、南北戦争も終わりに近づいた1865年初めのわずか1ヶ月間の物語だった。

物語の中心にあったのは、憲法改正である。リンカーンは合衆国憲法に奴隷制廃止の修正条項を加えようとしていた。奴隷解放宣言はすでに行ったもののその宣言に法的な根拠はなかった。そこで憲法の改正をすることで奴隷制を永遠に合衆国から葬り去ろうとしていた。だが、そのためには与党・共和党内のさらに過激な改正を要求する急進派の説得と改正に反対している野党・民主党から20名の賛成者を出すことが必要だった。

また、この提案は奴隷制を保持している南部諸州が復帰してからでは成立は不可能であるため、戦争が終結する前に成立させる必要があった。

物語はそのための多数派工作と戦争終結の交渉とを織り交ぜて展開していく。わたしはアメリカの歴史にくわしくないので、正直なところ、登場人物についてよくわからない所があった。たぶんアメリカ人にとっては日本の大河ドラマの登場人物のように、お馴染みの人たちなのだろう。そのお馴染みの人たちが出てきましたよという演出で、そこにはあまり付いていけないところもあった。

ただ、そんな勉強不足なわたしにも、リンカーンの真摯な気持ちは伝わってきた。リンカーン自身もけっして偉人ではない。1人の悩み苦しむ人間である。だが、奴隷制を廃止したいという気持ちの強さだけは超人的だった。

なぜそうまでしてリンカーンは奴隷制を廃止したかったのだろうか。それは、南北戦争を戦った60万人を越えた死者たちのためなのであろう。有名なゲティスバーグ演説は次の言葉で終わっている。それがリンカーンの真に成し遂げたかったことなのである。

―われわれはここで強く決意し、亡くなられたこれらの人たちの死を無駄にしないように、この国が神の下で新たな自由を生み出せるように、そして、人民の、人民による、人民のための政治がこの地上から滅びることがないようにしようではありませんか。(1863年11月19日)―

今、わが国でも憲法を改正しようという動きがある。はたしてそれは日本が日本らしい国として永遠に続くために必要なことなのだろうか。どのような憲法なら日本という国の形にふさわしいのか。『リンカーン』を観ることで日本の憲法についていろいろと考える機会にもなった。

2012.02.01

映画『ALWAYS 三丁目の夕日'64』を観る

2月1日(水)

映画の日の今日、新宿ピカデリ―で『ALWAYS 三丁目の夕日'64』を観てきた。3Dの方を観たため2千円したけど、VFXを駆使した映画なので3Dで観ないわけにはいかなかった。

映像は1964年の東京を見事に再現しており、東京タワーが完成し、東京オリンピックのあった年に、わたしもいつのまにか入りこんでいた。

だが、それは必ずしも過去を懐かしむことだけを意味しない。1964年の登場人物たちは未来を見ており、わたしもその中で未来を見るような気持ちに自然となる。そして、その未来が2012年の現実の日本ではないことに気づく。登場人物たちはあくまでもその時点の延長として未来を見ているので、現実の未来とは見ている方向がちがうのだ。

そしてそれは映画を観終わって、2012年の現実に戻っても感覚として残ることになる。わたしは現実に戻っても、あいかわらず未来を見ていて、それは当然今ではなく、これからの未来である。

そこでわたしは、その未来が1964年に反転されて見えるという不思議な感覚を味わう。1964年は大空襲の廃墟から東京が復興を始めて19年後のことである。1年前、わたしたちは東北沿岸を地震と津波と原発事故で失うという大きな経験をした。つまり1964年はわたしたちの18年後の未来を示しているという感覚なのである。

そういう意味では、最新のVFXを使って過去を忠実に再現したように見えるこの作品は、実はわたしたちのありうべき未来を示しているとも言える。そこにある未来像に、わたしはこれからのこの国の希望が見えるような気がした。

ALWAYS 三丁目の夕日'64

2011.09.06

映画『うさぎドロップ』を観る

9月6日(火)

9月1日(木)の映画の日に、新宿ピカデリ―で『うさぎドロップ』を観てきた。『コクリコ坂から』とどちらを観るか迷ったけど、人気子役の芦田愛菜ちゃんの演技を一度映画で観てみたいという気持ちが勝って『うさぎドロップ』を選んだ。

マンガが原作なのだが、わたしはマンガは読んでいない。でも、TVの宣伝を観ていたから何となく大まかなストーリーはわかっていた。要は、ひょんなことから20代の若者が6歳の幼女を引き取って子育てをする話である。

実際に観てみると、ちょっと違う気がした。まず、りんという名の幼女が単なる子供ではない。母方の祖父の隠し子であり、これが真実なら主人公のおばに当たることになる。また演じる芦田愛菜も外見は幼女なのに中味は女であるように演じている。ところどころで色っぽくさえ見えて、正直、売出し中の桐谷美令や若手女優の香里奈が霞んで見えるほどであった。

そしてりんは父を亡くしてひどく傷ついている。主人公のダイキチがこの子を引き取ろうと決めたのは、この傷ついた姿を観たからである。男は傷ついた女を観るとほってはおけないものだ。そして助けようとするものである。

話の筋としては子育て話で実際そういう感情も表現されている。だが主人公が養子という選択をしようとするとりんは「ダイキチはダイキチだよ」と言って断る。そしてダイキチもあえて無理強いはしない。

源氏物語には、主人公の光源氏が紫の上という少女と結婚するという話がある。『うさぎドロップ』の隠れた主題は、この現代ではタブーとされる大人の男と少女の恋愛なのかもしれない。つまりこの映画はロリコンが隠れた主題とも取れるのだ。

この映画はとにかく芦田愛菜ちゃんがかわいいし、主人公はイケメンの松山ケンイチだしで、それだけで楽しい映画なのだけれど、主人公の妄想シーンも挟まれていて、何となく主人公の変態性も暗示されている。ちょっと勘繰りすぎかもしれないけど、監督がSABUということからも、単純な映画ではないだろうとは推測できる。

うさぎドロップ

2011.08.04

映画『人生、ここにあり!』を観る

8月4日(木)

1日(月)の映画の日に、シネスイッチ銀座で『人生、ここにあり!』というイタリア映画を観てきた。副題は『Si Puo Fare[シ・プオ・ファーレ]!』(やればできるさ!)である。

映画の日とはいえ平日なのに客席は満杯、立ち見まで出る盛況ぶりであった。それほど話題の映画とも思えないのだが、外国映画好きな人には見たいタイプの映画なのかもしれない。深刻な課題をヒューマニスティックにそしてコミカルに描くイタリア映画の伝統に則った感じの作りであった。

時は1983年のイタリア。登場人物は精神病の患者たちとそれを取り巻く人物たちで、主人公は、ひょんなことから患者たちの社会的な自立を目指して奮闘することになった、協同組合の異端の闘士である。実話を基に作られており、この名の協同組合は実在する。Si Puo Fare!は、その組合のスローガンである。

スクリーンの中では精神病を抱えた異形の人たちが異常な行動を取り続けるのだが、それがどこかユーモラスで、観客席から何度も大きな笑いが起こっていた。これは絶望の物語ではない。患者たちは、さまざまな問題を起こしながらも、希望を持って生きている。

だが、一般女性との失恋で手ひどく傷ついた男が自殺することで、主人公はいったん挫折してしまう。しかしそれを救ったのは、彼との仕事の中で変わっていった患者たちだった。

精神病を抱えた人たちを精神病院に隔離すべきなのか、それとも解放して社会で働いてもらうのか、日本でもこれから問題になってくるだろう。いや現実に、わたしの住まいのアパートでは、下の階に、精神病院から退院したとの噂の男が住んでおり、異常な言動を繰り返しながらも、何とか一人で生活している。

精神病院からの患者の解放が、こういう人を社会に増やすことでしかないのなら、わたしはその主張にはあまり賛成できない。だが、この映画を観ていると、彼らがどんなに変わっていても人間であることに変わりないことは理解できる。だとしたら、彼らが社会的な生活を送ることを権利として認めるしかないことも確かである。

人生、ここにあり!

2011.07.17

映画『海洋天堂』を観る

7月17日(日)

おとといの金曜日に、シネスイッチ銀座に中国映画『海洋天堂 Ocean Heaven』を見に行った。私はいつもはチケット代が1000円の映画の日でないと映画を観に行かないのだが、今回は、TBSの『王様のブランチ』で、紹介者のリリコが泣きながら紹介していたので、通常の1800円の日に観に行く気になった。年に数百本を観ている人が泣ける映画はそんなにあるものではないだろうと思ったからだ。観客に年配の女性が圧倒的に多かったのは、その日がレディースデイで女性だけチケット代が900円だったこともあるのだろう。

この映画は末期ガンの父親と自閉症の20歳の息子・大福(ターフー)との物語である。自分が死んだ後も息子が少しでも幸せに暮らせるようにと父親は孤軍奮闘するが、最初はなかなかうまく行かない。しかし次第に理解者も見つかり、どうにか息子の生きる道筋が見えてくる。

最後に父親がしたことは、自分がいなくなっても息子が不安にならないようにと考えてのことだった。そこに父親のせいいっぱいの愛情が感じられて泣ける。

主演の父親役のジェット・リーは世界的なアクション・スターとのことだが、ここではその片鱗すら見えない。あくまでも不器用で真面目な優しい父親を演じている。彼の「大福(ターフー)」と息子を呼ぶ声が今も耳に残っている。この映画はこの声を聞くためだけに観に行ってもいいと言えるだろう。

音楽がきれいだなと思っていたら、なんと久石譲だった。この映画は中国が舞台だけど、スタッフは国際的でテーマも普遍的だ。娯楽性には欠けるが、おそらく何らかの映画祭で賞を取れる作品だと思う。

実は今回も予告編の映画の方がおもしろく見えたのだけど、おそらくまた予告編マジックなんだろうな。

海洋天堂

2011.03.04

映画『あしたのジョー』を観る

3月4日(金)

例によって1日の映画の日に、新宿ピカデリ―に『あしたのジョー』を観に行った。

『あしたのジョー』は有名な、あまりにも有名なマンガであり、これを今さら実写で映画化することにどんな意義があるのかとは思っていたが、予告編の香川照之演じる丹下段平があまりにも本気であったため、観てみる気になった。

観客には、ボクシング映画には珍しく若い女の子たちがけっこういたが、これは主役の山ピーが目当てなのだろう。噂では、力石役の伊勢谷友介の筋肉美を目当てのゲイの方々もけっこう観ているらしいが、外見でそれっぽい人は見かけなかった。

観た感想は、さすがにあえて実写化しただけあってすごくいい仕上がりで、製作陣と役者の本気が伝わってきた。特に、計量シーンの伊勢谷の姿には鬼気迫るものがあった。そして何よりも、ボクシングシーンの迫力が本物だった。

ただ、よくできていることは認めつつ、やはりあえて実写化する必要はあったのかという疑問は残る。作り手は、いったいこの映画にどんなメッセージを込めたかったのだろうか。日本にはかつてこんな時代があったのだと今の若者たちに伝えたかったのだろうか。

エンドロールで宇多田ヒカルの歌声が響く中、観客はバラバラと帰り始めた。その姿に、いや、こういう映画はもういいよ、という観客の気持ちが表れているような気がした。

映画『あしたのジョー』公式サイト

2010.12.04

映画『Space Battleship ヤマト』を観る

12月4日(土)

12月1日(水)の映画の日に、新宿ピカデリ―で『Space Battleship ヤマト』を観てきた。日本の大作映画には珍しく水曜日が初日で、おかげで1000円で観ることができた。初日にも関わらず、平日のせいか、座席はけっこう空いていた。

わたしは『宇宙戦艦ヤマト』のTV放映を子供の頃に観ていて、それなりに思い入れもあるため、アニメの実写化にはそれほど期待していなかった。しかし予告編がおもしろかったので、とりあえず観ておこうという気になった。

観た感想はVFXがすごいの一言につきる。アニメでは表現できない、地球からのヤマトの発進、波動砲の発射の迫力が、実写では十分表現されていた。この場面を観るためだけでも、映画館に行くべきである。おそらくこの映像が日本映画のVFXの最高の到達点であり、世界に対抗できる部分だと思う。

あとストーリーの方も、アニメから36年経って古びた部分を削り、新しい要素を加えることで、初めて見る世代の鑑賞にも耐えられるようにしてある。その分、古くからのヤマトファンには不満が残るかもしれないが、わたし個人としては残してもらいたかった部分をうまく残してくれていてうれしかった。

製作者はこの作品で世界に挑む意気込みである。アニメのヤマトは海外でもファンが多い。はたしてこの作品がどのように評価されるのか、わたしも楽しみである。

Space Battleship ヤマト

2010.09.23

映画『怪談新耳袋・怪奇』を観る

9月23日(木)

9月15日(水)にシアターN渋谷に映画『怪談新耳袋・怪奇』を観に行った。シアターN渋谷は毎月1日の映画の日の他に、毎週水曜日にも1000円で映画が観られる。中にはシアター1と2があり、1は座席数が75、2は102である。この映画はシアター1で上映されていた。入場料1000円の日とはいえ平日の昼間に行ったせいか、観客は30人程度だった。

『怪談新耳袋』は、『新耳袋』という現代の怪談集を元に、BS-TBSで放映されていたが、今回、その映画版ができたわけである。映画ではツキモノとノゾミという2話が作られた。主演はアイドルの真野恵里菜、監督は『東京島』の篠崎誠、脚本は『呪怨・白い老女』の三宅隆太である。

ツキモノは一種のパニックムービーで、女子大生を主人公に大学を舞台にして恐ろしい出来事が起こる。ノゾミは、幼いころに事故で妹を亡くして自分を責めて生きてきた女子高生に、幼な子の幽霊が現れるという話である。

ホラー映画である以上、観客を恐がらせなければ意味がない。2つの話はその点で、種類の異なる恐怖を十分に味わえた。ツキモノでは得体の知れないものに理不尽に追いかけられる恐怖、ノゾミでは自分の中の狂気と向き合う恐怖である。

わたし自身はホラー映画にはあまり興味がなくて、真野恵里菜が主演でなかったら観に行くことはなかっただろう。でもホラー映画としてもよくできていたので、たとえ真野が主演でなくても楽しめたと思う。

怪談新耳袋・怪奇

2010.08.09

映画『借りぐらしのアリエッティ』を観る

8月9日(月)

8月1日の映画の日に新宿ピカデリーに『借りぐらしのアリエッティ』を観に行った。日曜の午後ということもあって劇場は満員で子供も多かった。

全体の印象は、小人の視線で見る世界が美しくもあり物珍しくもありで、その映像を観るだけでも映画館に行く価値のある作品だと思えた。

あらすじは以下の通り。ある田舎のイギリス趣味の屋敷に、心臓の手術を控えた少年がやってくる。その屋敷の床下には、親子3人の小人の一家が住んでいた。小人たちは人間からモノを借りながら暮らしている種族だった。しかし、その存在が少年にばれてしまい、一家は移住を決意する。

あらすじ自体には何も意外性はない。わたしたちは、ただこの映像が示す世界を眺めていればいいのだと思う。

この作品のメッセージは何だろう。滅びゆく小人族の暮らしと繁栄する人類の暮らしとの対比でそれぞれに見えてくるものがメッセージと言えるのかもしれない。人類だって、地球からいろいろ借りながら暮らしている種族なのだから。

※実は長々と感想を書いていたのだが、全部書き終える寸前に誤って消してしまった。ぐったり疲れたので書き直しは短めに済ませたけど、かえってよかったかも^^;

借りぐらしのアリエッティ

2010.05.03

映画『時をかける少女』を観る

5月3日(月)

映画の日の5月1日に新宿ピカデリーで映画『時をかける少女』を観た。今年に入って映画を観に行くのはこれで3度目である。いずれも毎月1日の映画の日に出かけている。しかも同じ新宿ピカデリーである。映画の日は映画代が1000円で済むし、新宿ピカデリーではオンラインでのチケット購入が簡単なので、当分はこの習慣が続くような気がしている。

さて本作品の方であるが、この作品の原作は1966年作の筒井康隆の小説『時をかける少女』であり、何度かTVドラマ化や映画化もされている。最近では2006年にアニメ化もされた。このアニメは半世紀前の原作を現代に蘇らせた作品として高く評価された。だから今さら実写で『時かけ』?という気持ちもあったのだが、前回『インビクタス』を観た時に流れていた予告の出来がよかったので観る気になった。そして今、観てよかったと思っている。

この作品もアニメと同じく原作の物語とは大きく異なる。原作でヒロインだった中3の少女は母親になっており、一人娘は高3である。今回はその娘がヒロインとなっている。母親は大学の薬学研究者で、タイム・リープの薬を独力で完成させる。そしていざ1972年4月のあの中学校の理科実験室へと行く寸前になって、交通事故で意識不明の重態になってしまう。ちなみにこれは初めてのTVドラマの設定年月である。

病院で一瞬だけ意識を取り戻した母親は、娘に自分の代わりに、深町一夫に会ってきてほしいと頼む。娘は母の願いをかなえるために、薬を飲んでタイムリープをする。しかし、パニックの中で念じる年代を1974年の2月と間違えてしまう。しかもその場所は大学の実験室であった。ヒロインは、その実験室で大学生の涼太と出会い、やがて涼太といっしょに深町一夫を探すための探索が始まる。

さらに言うと、この作品は、過去のすべての時かけ作品と本質的に異なる。本質的に異なるとは、その物語の構造が異なるということである。今までの作品のヒロインは小さなタイムリープは行っていたが、あくまでもその時代に限定されていた。未来からやってくるのはヒロインの約束の相手の方であった。ところがこの作品ではヒロインの方が大きくタイムリープして時代を飛び越えてしまう。その飛び越えた先の時代で約束の相手と出会うのである。今までの作品が共同体に住むヒロインの元にまれ人が訪れる、いわゆる「まれ人物語」であるのに対して、この作品はヒロインが自ら冒険に出かけて相手と出会いまた戻ってくるという、いわゆる「ゆきて戻りし」物語であると言えるだろう。

かつてこういう物語構造の主人公は、不思議の国のアリスを例外としてもっぱら少年だったのだが、ここでは少女が冒険の旅に出る。そのせいか、2010年の時をかける少女はどことなくアリスに似ている。そして彼女は時間のみならず空間もよくかけ回る。2010年の少女は自ら時空をかけて約束の人に出会う。でも、出会い方は大きく異なるのに、母と娘は同じものに出会っている。そこに時代を越えた普遍性がある。この映画の製作者はたぶんそう言いたいのだろう。

また少女が降り立った1974年2月という時代の空気を知っている者にとっても、これはたまらない作品になっている。50代のおじさんにとっても十分楽しめる作品と言えるだろう。いや、わたしはギリ40代ではあるのだが。

時をかける少女

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