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2014.08.19

川名壮志著『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)を読む

8月19日(火)

2004年6月、長崎県佐世保市で小学6年生の少女が殺害された。犯人は同級生の少女だった。殺害された少女の父親は毎日新聞の佐世保支局長だった。著者は入社4年目の駆け出しの新聞記者として、佐世保支局に勤務していた。

娘を殺された父親の部下として大きな衝撃を受け、葛藤を抱えながらも、著者は新聞記者として取材を続けていく。関係者への取材を重ねても児童の犯罪ゆえに犯行の動機は中々見えてこない。ブログに書かれた詩や日記、バスケット部からの退部、交換日記をめぐるトラブル、精神鑑定による発達障害という診断、何かがわかったようで、何も見えてこないまま、断片的な事実だけが積み重なっていく。

やがて少女に児童自立支援施設への送致という審判が下る。だが、著者にとって事件は終わりではなかった。その後も遺族となった元上司や加害少女の父親などへと取材を重ね、一冊の本にまとめるまでに10年の月日を必要とした。

この本には最後に被害者の兄への取材に基づく、兄の一人語りの章がある。わたしはこの章がなければ、本として一冊にまとまることはなかっただろうと感じた。タイトルの「謝るなら、いつでもおいで」はこの兄の言葉である。彼は事件後何を経験したのか、それをどう乗り越えてきたのか。著者は兄への取材で初めて少年の可塑性を実感する。それは加害少女の可塑性への希望へとつながる。

この本に足りないところがあるとすれば、それは加害少女の手記だろう。それは永遠に埋められることのない章として空白のまま置かれるのだろうか。それともやがて少女が語り出す日が来るのだろうか。

(8月13日読了)

2014.08.14

大野更紗著『シャバはつらいよ』(ポプラ社)を読む

8月14日(木)

『困ってるひと』が出版されて3年経つが、本作はその直接の続編となっている。前作は、ミャンマー(ビルマ)とビルマ難民についての若き研究者だった著者が、思いもかけず難病にかかって入院し、治療を受けながら様々な福祉制度の壁とも闘うという話だった。その感想は本ブログの2011年8月27日(土)に記してある。

→ http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2011/08/post-2e04.html

本作では筆者は退院し、都心で一人暮らしをしながら闘病を続けてゆく。一人暮らしでクリアしなければならないことは多く、相変わらず制度の壁は分厚いが、一つずつ辛抱強く乗り越えながら、難病の一人暮らしを続けてゆく。だが、そんな著者と福島の家族に、やがて東日本大震災が襲いかかる。

前作と同様に、どんなに打ちのめされても、著者には若さと知性があり、闘病の暮らしをユーモラスに描いてゆく。前作とちがうのはTwitterを始めたことだ。シャバの暮らしの中で自分のフォロワーと実際に会ったりもする。わたしも著者のフォロワーになって3年半だから、著者のツイートはずっと見てきた。だから当時のツイートの背後にあった著者の暮らしを知って初めてああそうだったのかと納得できるところもあった。ただ「ちょもらんま~」とだけツイートしていた著者の苦しさが少しだけわかった気がした。

そのうえ本作では、著者は東日本大震災を機に新しい道へと踏み出す。震災を機に難病であっても人の役に立ちたいという思いがわき起こり、難病の当事者の立場から社会保障システムの研究をするために、大学院に入り直すのである。難病女子、物書き、研究者の3本立ての生活が始まった。はたしてこれからどうなるのだろう。続きはまた次回をお楽しみにというところだろうか。

(8月6日読了)


2014.08.07

上野千鶴子著『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店)を読む

8月7日(木)

近代日本社会を分析する際に、ミソジニー(女性嫌悪・女性蔑視)をキーワードに腑分けしていくと、日本の家族や男女に関する様々な問題が解けていく。一面的な理屈と感じる部分もあるが、概ねこれでいいような気もする。よくできたフェミニズム理論である。

ただ、読み進めるうちに引っ掛かる所は何ヶ所もある。たとえば、

―これまでの一生で、男のうちで、「女でなくてよかった」と胸をなでおろさなかった者はいるだろうか。女のうちで「女に生れてソンをした」と一度でも思わなかった者はいるだろうか。(p.8)―

これまでの半生で「女でなくてよかった」と思ったことはないが、「男に生まれてソンをした」と思ったことは何度かある。

―女を性的客体とし、それを貶め、言語的な凌辱の対象として共有する儀礼トークが猥談だ。下半身ネタを語ればすなわち猥談になるわけではない。猥談には作法があり、ルールがある。(p.32)―

女たちが女子会で語る下半身ネタは猥談ではないのだろうか。

―男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。(p.29 )

男の連帯とかどこの話なのだろう。むしろ近所のコミュニティで強いつながりを持っているのは女の方ではないのか。

次々と湧き上がる疑問を取りあえず抑えて、著者の考える前提をすべて正しいと仮定して我慢して読み進めていくと、やがて霧が晴れるように、この世の中で起こっていることが、スッキリと見通せるような気がしてくる。そういう意味では、この本の理論はかつてのマルクス主義やフロイトの精神分析の理論に似ている。それだけでかなりのことが説明できてしまうのである。

理論の前提は変わりうるし、著者自身もやがて自分の理論が古臭くなるような社会になってもらいたいと語っている。だが、今のところは、著者のこの徹底して記号論的な理論の現実妥当性を認めるしかないようである。

(7月28日読了)

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