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2012.12.29

越水利江子著『ヴァンパイアの恋人 運命のキスを君に』(ポプラ社)を読む

12月29日(土)

前作『ヴァンパイアの恋人 誓いのキスは誰のもの?』では様々な謎が提示された。本作『運命のキスを君に』はその謎解きをしながら物語が推移してゆく。この作品ではヴァンパイアと人間が共存している。なぜそんなことが可能なのか。黒太子はなぜこの国を統治できているのか。その中でのルナの役割とは何か。ラスピラズリの石の力とは。

壮絶な戦いの果てにその謎はすべて解かれる。またタイトルの運命のキスの相手も、そのキスの意味も明らかになる。だから本作はこの作品全体の完結編とも言えるだろう。

でも、謎解きが終わったことは、実はこの物語の始まりにすぎないのかもしれない。この国ではこれからも様々な事件が起こるだろうし、主人公の女の子もまだ、めでたし、めでたしというわけではないからだ。

いずれにしてもこの作品には、すでに舞台化する条件は揃っている。特に宝塚の舞台に合うような気がする。かつてモーニング娘。と宝塚のコラボで『リボンの騎士』と『シンデレラ』が舞台化された。個人的には、また元モーニング娘。の高橋愛をヒロインにして、宝塚とのコラボで舞台化してもらいたいものである。

(12月26日読了)

2012.12.25

再掲・エチオピアで過ごした20日間

12月25日(火)

ブログに書いたことはないのですが、とある手書きの文集に書いた文章を再掲します。1990年1月、今から約23年前に書いたものです。ブログだとわかりにくいと思われる表記については変えましたが、誤字脱字も含めて文章に変更はありません。当時、わたしは青年海外協力隊(JOCV)の隊員としてケニアで活動中でした。これは休暇中に当時、社会主義国だったエチオピアへ旅行した経験を綴った記録です。

―昨年の12月7日から26日までの20日間、エチオピアへ行ってきた。『アフリカ2つの革命』、『アフリカ33景』(伊藤正孝、毎日新聞社)の2冊をケニアで読んで以来、この国へは1度行ってみたかった。皇帝を倒しての社会主義革命をなしとげながらも、今なお内戦と飢えに苦しむエチオピア。その実情はどうなのか、ケニアにいてはさっぱりわからない。自分で行ってみるしかなかったのだ。

また、さいわいこの国には僕の酒飲み仲間が3人いる。ケニアで飲み足りない分を、エチオピアで思いっきり満たしたいという気持ちもあった。

僕の思いは十分に満たされた。何の連絡もしないで突然訪ねていったにもかかわらず、隊員H、J、Tの3人には、これ以上ないというくらいの世話を受けた。深く感謝する。 

1990年1月 Kituiにて


Ⅰ. アジズアベバ(ADDIS ABABA)

ボレ国際空港

アジスの郊外にあるこの空港に、僕を乗せたエチオピア航空の便が到着したのは朝の10時頃だ。入国のチェックを受け、荷物を受け取り、銀行でUSドルを換金する。1ドルがだいたい2ブル(ビル)である(闇相場では、1ドル≒6ブルときいた)。

外に出て、失敗したなぁと思う。ナイロビと変わらない日射しと気温だ。エチオピアは北半球にあるし、アジスは2400mの高地にあるのだから、きっと寒いにちがいないと、コートやらセーターやらを持ってきてしまったのだ。背中のフレームザックが急に重たくなる。

タクシーやマタツのような乗物が10数台、客引きをしている。でも1日は長い。のんびり歩いていくことにしよう。

日本大使公邸

JOCVのオフィスをめざして歩き出したはいいが、どこにあるのかよくわからない。出発前にMさんに地図を見せてもらったけど、ほとんどウロ覚えだ。このあたりだろうと見当をつけ、目をつけた子供に道をきいてみる。残念ながら、彼には英語もスワヒリ語もわからない。エチオピア人の共通語はアムハラ語(アムハリック)なのだ。しょうがないのであたりをウロウロしてみる。チャイナ!コーリャ!とあちらこちらから声がかかる。ふいにジャパン、ジャパン!という声。思わずふりかえると、数人の子供たちが、そろって空を指さしている。そこには日の丸がハタめいている。下には何やらでかい家がある。JOCVオフィスではあるまいと思いながらも門番に話しかけると、しばらく奥に引っ込み、日本人を1人連れてきてくれる。品のよい初老の人だ。わざわざ外に出て、JOCVオフィスの場所をていねいに教えてくれた。その人がエチオピアの日本大使だということは、あとでわかった。ここは大使公邸だったのだ。

JOCVオフィス

11時半頃、オフィスに着く。ずいぶん小さい。中にはいるとガラーンとして誰もいない。声をかけたら、奥から調整員らしい人が1人出てきたので、JOCVドミトリーの場所をきく。

「それはな、○○大使館があったらそこを左に曲がってまた右に曲がったすぐのとこや」

○○とはたぶん“日本”のことだと思い込み、再び歩き出す。いいかげん疲れてくる。そうこうしているうちに何やらだだっ広いところへ出てしまう。アジスの中心のようだ。広大な道路を車が走っている。右側通行である。どうやら道をまちがえたらしい。再びオフィスへ引き返す。昼2時頃、ヘトヘトになって到着する。

「日本大使館じゃなくてカメルーンエンバシィーや」と先の調整員らしい人に教えてもらう。今度は現地スタッフのガボさんにドミトリーまでついてきてもらう。5分でつく。

JOCVドミトリー

ケニアと比べるとずいぶん小さいドミトリーだ。隊員数は少ないし、アジス隊員が多いからちょうどいいのかもしれない。バス、トイレ、シャワー付、狭いながらもリビングルームがあってマンガもそろっている。ベッドルームは2つで、各部屋に4人ずつ寝ることができる。庭もあってなぜかヤギを飼っている。

新隊員が研修中なのと、新隊員・帰国隊員の歓送迎会が間近なのとが重なって、ドミトリーはにぎやかな最中だ。その中に同期のHがいた。まったくの偶然だった。彼は地方隊員なのだ。「なんで連絡しなかった」とさっそく叱られてしまう。

インジェラ

ドミトリーにいたIくんも連れてHと3人でエチオピア料理を食べにいく。インジェラはエチオピア人の主食だ。テフという穀物をひいて粉にし、練って発酵させたものだという。チャパティーのように、いやそれ以上に、うすく広くのばしてある。手ざわりはスポンジに似ている。味はすっぱい。その上にいろんな種類の肉や野菜がのせてある。手でスポンジをちぎり、おかずを包んで食べるわけだ。

朝から何も食べていなかった僕は、おいしいおいしいとこのエチオピア料理をたいらげてしまった。「最初からインジェラがうまいと言ったのは、おめえが初めてだ」とHが驚く。だが、それから10日もしないうちに、食えなくなるほどインジェラがいやになろうとは。

エチオピア人のあいさつ

エチオピア人は、両手で握手をし、日本人のように頭を下げ腰をかがめる。スタッフのガボさんや庭師とあいさつを交わしながら、僕はなんだかホッとするのだった。あいさつの言葉は一般にテナエステリンと言う。アムハリック(アムハラ語)では、ふつう男に対する時と、女に対する時とで言葉が変わる。あいさつの言葉も、男へはデナネシ、女へはデナネンというように言うことが多い。ついでながら、アムハリックには独自の文字がある。文字を持った民族には独自の個性があるような気がする。現代文明と調和できる、“現代”につながりうる個性といおうか。

ホンコン

同期のアジス隊員Jは、マンションの最上階・7階(日本式には8階)に1人で住んでいる。近くに中華料理店「ホンコン」があるので、隊員はこのあたりを「ホンコン」と呼んでいる。アジスを南北に貫ぬくチャーチルアベニュー。北の端には市庁舎、南の端には駅がある。「ホンコン」は、駅の近くだ。

僕はけっきょくホンコンでしばらくやっかいになることになった。その夜はさっそくドンチャン騒ぎだ。外出はできないことになっている。エチオピアでは夜間外出禁止令があるために、夜12時から朝5時まで出歩くことができない。特にアジスではJOCVオフィスの方針で隊員の日没後の外出はできないことになっている。今、アジスの治安はとても悪い。

J、H、僕の3人は、その分あびるように酒を飲み、エチオピアのこと、ケニアのこと、そして兄が亡くなり一時帰国中のTのことなどを語り合ったのだった。

エチオピアは社会主義国

アジスを歩いて、社会主義国に来たんだと実感するのは、まずは革命広場(アビオット スクエア)の前に立った時だろうか。巨大な絵が3枚掲げてある。まんなかには、国家元首メンギヒツを先頭に、旗をもってついてくる国民たちの絵。両端には、エチオピアの国旗の絵とマルクス、エンゲルス、レーニンの3人の顔が重なった絵がある。一昔前の一コママンガを拡大したようなこっけいな絵だった。

革命広場から歩いて10分くらいのところにOAU(アフリカ統一機構)の本部がある。その目の前には何と10mはあると思われる巨大なレーニン像が立っているのだ。タンザニアのウジャマー社会主義とは違って、ロシア型元祖マルクス=レーニン主義を掲げているだけのことはあるわいと、あきれるのを通り越して感心してしまったのだった。

革命広場の後方に革命記念館というものがある。いくつかの建物の中で1つだけ開館中だ。主に1920年代からのイタリアファシズムとの戦い、70年代のタクシーのゼネストから始まった革命の経過、74年の革命成立とその後の発展といった筋書きのようだ。皇帝ハイレ=セラシエが、飼い犬に巨大な肉の塊を与えている写真とやせ衰えた老人が食べ物を乞うている写真。皇帝のイメージを決定づけ、ついに帝政廃止にふみきらせた写真だったと思う。これらもしっかりと展示されてある。その頃よりは今はずっとよくなっているんだと言いたいらしい。本当だろうか。

アジス乞食とナイロビ乞食

アジスアベバはナイロビより広い。中心部は東京丸の内の皇居前に似ている。高いビルがあるわけではないし、走っている車もオンボロが多いけれど、道路や広場の広さに都市としてのゆとりを感じる。ジャカランダが美しい。またナイロビでは少し郊外に出るとすぐに草原が広がるのに対して、アジスでは郊外にも住宅がのびている。アジスの方が都市らしいと思う。外見的には。

しかしアジスはくさい。特にしょんべんの匂いが強烈だ。どこを歩いてもこのくささにつきまとわれる。歩道のまんなかにうんこが落ちまくっている。中にはとぐろを巻いた人プンもあるという。いや、人プンの方が多いところもあるそうだ。うっかり坐ったりしたら大変なことになる。

道端には、死体のような人間が、汚いかっこうでゴロゴロところがっている。そばでやっぱり汚い子供たちが遊んでいる。こちらに目をとめると寄ってきて「ファザー、ファザー」と哀れな声を出す。無視すると100mでもついてくる。しょうがないので「ゾルバ(あっちへ行け)」と言って追い払う。先を歩くと、3才ぐらいの子供が坐り込んで泣いている。この子はいつも同じ場所で、同じように泣き続けている。片方の目が目ヤニでふさがりかかっている。乞食の子である。足元には小銭(セント玉)がちらばっている。

アジスには乞食が多い。いきなり手をヌッとつき出してくるのもいる。肩をつかんでくる者さえいる。身体に障害のある者が目立つ。精神障害者も中にはいるのだろう。コーリャ、コーリャと言って、おばさんが意外に強い力で肩をつかんできた時は、思わず乱暴に払いのけてしまった。キーッと何か叫んでいたっけ。

これに比べるとナイロビの乞食は数も少ないし、おとなしい。「ニペ シリンギ モジャ」なんてかわいいんだろう。

ブンナベット

ブンナはcoffee、ベットはhouseだからcoffee houseだというわけではない。エチオピアのお姉ちゃんがお酒の相手をしてくれるところだ。奥の方には小さな部屋がいくつもあって、そこに宿泊することもできる。もちろんブンナやシャイ(tea)を楽しむところででもある。ところで「アンチコンジョーノシ」というのは「あなたかわいいね」という意味だそうで。

エチオピア美人とケニア美人

「アフリカ33景」にある画家水野富美夫氏が描いたエチオピアの女たちは本当に美しい。この絵のような女たちに会えるかもと期待していたが、残念ながら期待ハズレだった。でも確かに顔立ちは美しい人が多い。インド人に似ている。ハダは黒くて髪はチリチリだが。歯がスカスカの者が多いのは、エチオピアの水道水に含まれるフッ素のせいらしい。小柄で下腹が出ているのは日本人に似ている。でも日本人とちがうのは手足が細いところだ。足が細すぎるせいか、足首のくびれは目立たない。胸はでかいがたれ気味の者が多い。

ケニア美人には、くりっとしたかわいい瞳、黒光りするハダと真白ですきまのない歯、とがった胸、くびれた腰、しまった足首といった全体的な魅力がある。顔だけならエチオピアかもしれないが、全体としてはケニアの方がよい。

ついでながら、アジア人の中では、アオザイを着たベトナム美人が僕は好きだ。日本の美人はどっかアメリカナイズされたところがあって変だと思う。

虫、虫、虫…

アジスでバスに乗ったり、乗り合いタクシーを使ったりして、あちらこちらを回っているうちに、僕の全身は虫さされのあとだらけになってしまった。手足とベルトの上あたりが特にひどくて、全体では100ヶ所以上さされただろう。

それとハエ。アジスを歩いているとすぐにハエがまとわりついてくる。それも口元にとまる奴が必ずいる。目にとまろうとするのもいる。これにはウンザリだ。

自分では汚なくしている方が好きだと思っていた。しかしウンコ、おしっこにまみれ、ハエ、シラミ、ダニ、南京虫にとりつかれて生活するのはイヤだ。僕の汚ないもの好きは、きれい好きな日本人の中での相対的なものにすぎなかったのだと実感する。

JVC訪問

ケニアの新隊員Nさんに頼まれたこともあって、JVCのアジスオフィスを訪問することにした。H、J、僕、他に同期のOくんもいれて4人でアジスの東の郊外にあるオフィスへと出かけていった。JVC調整員で元マラウイ隊員の鈴木さん、谷村新司に似たエハラさん、その奥さん(?)と話をした。

JVCは日本のNGO(民間ボランティア)の一つである。正式には、Japan International Volunteer Centerという。1979年にタイでカンボジア難民の救援活動を始めたのがはじまりだ。エチオピアでは、1984年から北部のアジバールという地域で緊急医療救援活動を1年間、その後、植林をはじめとする総合開発プロジェクトへと引き継がれ、現在に至っている。ソマリアでもJVCによるエチオピア難民の救援活動が継続中だという。

とはいえ、現在、エチオピアの北部では激しい内戦が続いているので、スタッフは全員アジスへ引きあげている。このあと、再開の見込みはないそうだ。TPLF(Tigray People Liberty Front)軍と政府軍との戦闘がいつ終わるのかが問題だ。TPLF軍は9月頃、アジスの北百数十km地点までせまってきたが、政府軍に押し戻された。その後、ナイロビで、元米大統領カーターの仲介で、政府とTPLFの話し合いがもたれたが、けっきょく物別れに終わった。

北部では今400万人が飢餓状態にあると言われている。国民の間には厭戦気分が拡がっている。政府への不信感も大きい。こうなったらクーデターでも起こらない限りどうしようもないんじゃないか。僕らはそんな話をした。

『JVCアジバール病院』という本を読んでみると、彼らの悪戦苦闘している様が伝わってくる。劣悪な環境の中で、人間関係がぐちゃぐちゃになりながら、また身体をこわす寸前まで働きながら、彼らはなぜ自らの仕事を投げ出さないのだろう。人間の意志、意地、そんなことについて考えさせられてしまう。

エハラさんはその後TPLFの様子を探るために北部へと出かけていった。12月の末に彼は日本へ帰っていった。


Ⅱ.ジンマ(JIMA)

バスターミナル

早朝6時、Hと僕はジンマ行きのバスの横に立っていた。前日運転手がさぼったためバスが出発しなかったから、2日連続の早起きだ。2日酔いも何日続いているかわからない。ジンマ行きの許可をえるのに意外と手間取ったこともあって、今日ようやくHの任地・ジンマへ行けそうだ。

ジンマは、アジスの南西340kmの所にある人口7万人の町である。ここへ行くためには朝早く起きるしかない。朝のこの便がジンマ行きのすべてだ。これは、他の地方に行く時にもだいたいあてはまる。

運転手とその相棒がやってきてもバスはあかない。出発直前までバスの横で立ちっぱなしだ。エチオピア人は、知り合いがいるとかまわず列に割り込んでくる。前の列の知り合いに声をかけ、いつのまにかその隣に並んでしまうのだ。

乗り込む時も先を争うように、人を押しのけながらだ。見送りの者もいっしょにバスの中まではいってくるので、ほとんどパニック状態だ。席の分しかチケットはないハズなんだから、そんなにあわてることはないと思うのだが。

朝8時頃ようやく出発する。着くのは夕方になるだろう。先日からの疲れのせいか深い眠りにおちる。途中、1度目が覚めてからは、浅い眠りのくりかえしだ。いくつものチェックポイントがあり、乗客が降りては乗り、狭い道をくねくね曲がり、リフトバレーの底まで降りてまた昇り…気がついたらジンマについていた。

ジンマの町

ジンマはコーヒーの産地なので、不便な土地にもかかわらず人口が多い。町を歩いてみる。どこを歩いてもブンナベットばかりだ。観光客ではなく、地元の人間が利用しているという。

そしてここにも乞食の群れ、チャイナ、コーリャと呼ぶ声、ハエとウンコ、小便のにおい、あいかわらずだ。1度、歩いている時、金持ちのお坊ちゃんぽい集団とすれちがった。そのうちの1人がコーリャ!とあごを突き出すようにして叫んだ。あきらかにバカにした顔つきだった。エチオピア人は、どうも、中国人や朝鮮人をバカにする傾向がある。彼らはエチオピアへ技術援助に来ているハズなのにどうしてだろう。

日本人はどうか。エチオピアでは、ジャパン!とバカにしたように叫ぶ人間とは出会わなかった。あまり知られていないからかもしれない。では、ケニアではどうだろうか。

ジンマ農業カレッジ

Hの家はこのカレッジの構内にある。メイドを入れて3人のエチオピア人と同居中だ。Hは農業機械隊員としてこのカレッジで働いている。いい機会なので構内を案内してもらう。

草地の方では学生が草刈りと牧草の運搬をやっていた。これも実習の1つで、労働のつらさを理解させるためのものだそうだ。ここの学生は卒業後、各地の農業改良普及員として村の中で活動することになる。でも2年間のつめこみ教育ではどうしても表面をなぞるだけに終わってしまうとHは嘆いていた。

エチオピア人のスタッフから、実験室を見せてもらう。さすがにカレッジだけあって整っている。ただ、あまり使われていないようだ。革命前のアメリカからの輸入品が目についた。8月にカミナリが落ちてこわれたという窓ガラスもそのままであった。

エチオピアの歌

バスの中やブンナベット、ホテルでは、エチオピアの歌がひっきりなしにかかっている。どちらかというと静かな曲が多い。同じ節回しがくりかえされる。日本の演歌と似ている。そのせいかエチオピア人は、日本の演歌も好きだ。ジンマホテルで食事をした時は、森進一の曲がかかっていた。歌詞のはいってないものが好まれているようだ。

強制移住の村

ジンマにはないが、エチオピア南部のスーダン国境やソマリア国境あたりには、北部から強制的に移住させられた人々の村があるそうだ。政府の政策である。政府によれば、北部は砂漠化して人が住めなくなってきたので、希望者だけを南部の豊かな土地に移してそこで生活してもらおうというつもりだそうだ。しかし、この政策は政府の戦略の1つだという説の方が有力だ。TPLFのゲリラ活動には村人の協力が不可欠である。村人がいなくなればゲリラ活動はできなくなる。そこで…というわけだ。

そうやって移住させられた人々は、野生動物の多い、厳しい環境の中でいったいどのように暮らしているのだろう。この目で見てこれなかったのが残念だ。


Ⅲ.アジスふたたび

ローコスト

アジスに職場のある隊員が固まって住んでいる地区が、アジスの東のはしっこにある。この地区を隊員はローコストと呼ぶ。low costの意か。

新隊員、帰国隊員の歓送迎会では、みやげもなしで参加して、大騒ぎをしてしまったこともあって、足が遠のいていた。しかしローコストの住人の1人であるTが日本からもどってきたので、もう1度お邪魔することにする。

Tの人徳かはたまたみやげの荒巻きジャケに引かれたのか。日本食パーティーには、ほとんどのアジス隊員が集まってきた。なぜかケニア隊員のKさんもいた。

レーシングゲーム

酒を飲んでひとしきり盛り上がったところで、突然、レーシングゲーム大会が始まった。子供の頃に熱中した例のアレだ。妙なものがはやってるなと内心思いながら、レースに参加してみると、これが意外と難かしく、またおもしろくもあり、熱中してしまった。特に50周の耐久レースがすごかった。途中でコースをはずれては拾いに走り、コードは抜けるは、他の車にぶつけるはで、こんなに無邪気に遊べるゲームもそうはないだろう。

エチオピアの隊員は男ばかりである。大の男がガキの遊びにバカさらして熱中できるのはそのせいかもしれない。男だけというのもいい面がある。

北の国から

ローコストにビデオがあった時、「北の国から」というTV番組を最初から'89冬まで観ることがはやったという。Jは特にかぶれていて、会話のはしばしに「北の国から」のセリフがとびだしてくる。千葉か埼玉出身のハズなのに、北海道弁がポンポン出てくる。聞いているこっちが気恥ずかしくなる。

バリバリ伝説

アジスには、「バリバリ伝説」がほとんどそろっている。「ギャンブラー自己中心派」「アキラ」は全部、「こちら亀有…」も何冊かある。「夏子の酒」第2巻があった。

ケニアには、「ブラックエンジェル」「コブラ」「ガラスの仮面」「めぞん一刻」「ドカベン」「ダミーオスカー」ってところか。国によってずいぶんとちがうものだ。エチオピアがバリバリ伝説ならケニアはシャコタンブギかなあ。

マルカート

アジスにはアフリカ最大の市場といわれるマーケットがある。マルカート。マーケットのイタリア語読みであろう。

2度ほど歩いてみたが、人ゴミがすごいのと、あまりの広さに、ついに全体像がつかめずじまいであった。ある一画ではチーズ類・穀類だけが売られ、別の区域では布製品、また別のところでは革製品というように、とにかくスケールがでかい。アジスには何でもあると言いたくなる。

エチオピアは社会主義国だから、マルカートはブラックマーケットとして取り締まりの対象となるハズだが、実際は逆に政府から保護されている。自由市場がかろうじてこの国を支えているからである。

それにしても人が多い。久保田早希の「異邦人」を思い出す。

―市場へ行く人の波に体をあずけ、行きあたりの街角をユラユラと漂う。―

エチオピアの子供たち

エチオピア、特にアジスでは、働いている子供が多い。売り子や靴みがき、宝くじ売りをしているのは、ほとんどが5才~10才くらいの子供たちである。彼らはもちろん小学校にも行っていない。彼らの夢は何か。Jは言う。

「あいつらの夢はマルカートに店を持つことさ。でも、靴みがきにしてもその仕事を得るのがまた大変なんだ。あいつらはだからけっこうしたたかだよ。商売のやり方がうまいのには感心するね」

Hは言う。「奴らは礼儀ってものを知ってるよ。おれたちが今になっても身につけていないものを、奴らはあんな小さな頃から持っているんだ」

彼らには夢がある。でも彼らの未来は絶望的だ。多くの者が病気や飢えで死に、残った者も大部分が乞食になるだろう。

エチオピアという国がこれからどう変っていくのかが問題だ。今のエチオピアには、物があり余っているように見えるアジスの中にさえ、乞食があふれかえっている。背広を着た少数のエチオピア人が、そのわきを通り過ぎていく。

この図式は、ケニアには一見あてはまらない。しかしナイロビ人口の三分の一がスラムの住人であることは事実だ。僕たちの目にそれは見えない。エチオピアでは簡単にスラムにはいることができた。ケニアでは、スラムは恐いところだから行っちゃいけないよと忠告される。ケニアでは貧困が巧妙に隠され、僕たちの目には見えなくさせられているのだ。でも例えばナイロビ乞食がどこへ帰っていくのか、そのあとをついていったら、案外エチオピアと似たような現実にぶつかるかもしれない。

日本はどうだろう。日本の子供たちに未来はあるのだろうか。僕たちに日本の現実は見えているのか、見えなくさせられてはいないか。

エチオピアへ行ったからといって、別に自分が変わったとか言うつもりはまったくないが、いろいろ考えることができたのはよかったかもしれない。苦しいことも多かったけど、ふりかえればやっぱりなつかしい。行ってよかったのは確かだ。―

(終)

2012.12.19

荻上チキ著『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』(幻冬舎新書)を読む

12月19日(水)

副題は、絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想、とある。著者はこの本で、この国の未来をただ悲観したり、政治不信のあまり政治への関心をなくしたりしている人たちに向けて、ダメダメばかり言っていないで、もっと自分から提案して自分の周りから社会を変えていく努力をしてはどうかと呼びかけている。

著者は1981年生まれの若手の評論家であるが、20代から社会問題に関心を持ち、その解決のために様々な試みを続けてきた人で、社会運動家の面も持っている。バランス感覚の優れた人で一方的な議論はあまりしないし、人の議論を交通整理することに長けている。党派性から比較的自由という点でもこの国には珍しいタイプの知識人である。

この本では、今この国はどんな状態にあり、どんな経緯でそうなったのか、その解決のためにどんな議論がなされてきたか、これから私達はどうすればいいのかについての著者の考えが明確に述べられており、たとえ著者とは考えの違う人でも、自分の考えをよりハッキリさせるために読んだ方がいい。

著者の根本的な考えは、この国は、見捨てられる人が誰もいない、包摂された社会を目指すべきであるということである。そのためには行政だけが動いて国民はただ文句を言っていればいいということではなく、わたしたち国民も社会をよくするために自分で解決案を出して実行に移すこと、ボランティアや社会的起業家などの新しい公共の必要性を自覚し、支援していくことが求められる。

また、近年になってTwitterやFacebookのようなブログやSNSが発展し、わたしたちは容易に自分の考えを発信し、人の考えを受信できるようになった。ネット上で有志が呼びかけただけで、再稼働反対デモに数万人が集まったのもつい数ヶ月前のことである。わたしたちは今までより政治に参加しやすい環境にいる。Twitterで公式RTをすることがそのまま政治参加につながることもある。そのような形で仕事や遊びの合間に政治に参加することがあってもいいと著者は言う。

わたしはこの本を読み終えてから衆議院議員の総選挙と都知事選の投票に行った。その結果についてはここで特に言うことはないけれど、ただ、総選挙の投票率が戦後最低だったのは残念だった。『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』という、この本のタイトルに込められた著者の気持ちを少しだけ理解できたような気がした。

(12月16日読了)

2012.12.09

春日太一著『仁義なき日本沈没 東宝vs.東映の戦後サバイバル』(新潮新書)を読む

12月9日(日)

これは東宝と東映という老舗の映画会社での人間模様を中心に描かれた戦後日本映画史である。個々の作品よりもむしろその映画を企画製作し興行として配給する人々の行動を追ったものである。

そのためもあるのか、著者の文章に特有の対象者が乗り移ったような情念のこもった筆致は抑制され、より俯瞰的に人々が描かれる。だが著者の熱い気持ちは所々で噴き出し、ついに「仁義なき戦い」と「日本沈没」の製作過程を追った第4章では春日節が全開となる。

1977年生まれの著者がどうして60年代の映画模様をここまで迫真の筆致で描けるのだろう。学生時代からケーブルTVで東映や日活映画を見まくっていたらしいが、それに加え、当時の映画雑誌の丹念な読み込みと関係者に深く取材した結果もあるのだろう。まるで実際に関わっていた人としか思えない描き方であった。

「仁義なき戦い」の実録モノは昔の作りモノ感のある映画を終わらせ、「日本沈没」は今の映画興行のあり方の先駆けとなった。東映はその後テレビ時代劇に生きる道を見い出し、東宝は製作部門を完全に切り離し外注へと移行していく。

今の映画は昔とはちがう土壌の中で製作されている。昔と今とどちらがいいのか評価はさまざまだろう。著者は映画全盛期の頃の日本映画を見まくったものとして本当は「昔はよかった」と言いたいはずである。だが、この本の中では最後までその言葉を自分で言うのは抑えていた。


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