石井光太著『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)を読む。
3月22日(木)
2011年3月11日、宮城県沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北太平洋岸は高さ10mを越える津波に襲われた。東日本大震災と命名されたこの震災の死者、行方不明者は約2万人。1年を過ぎた今も正確な数は確定していない。
著者は3月14日にはすでに被災地に入っている。取材の過程で、数多くの無残な遺体と取りすがる遺族の姿を目にする。その中で、この無残な死を被災地の人たちが受け入れない限り復興はないと思うようになる。釜石市は市の半分が津波の被害を受けなかったため、市民たちが中心になって遺体を取り扱っていた。著者は釜石市の遺体を追うことにする。
様々な登場人物が現れる。民生委員、医師、歯科医、歯科助手、市の職員、海上保安員、自衛隊員、消防署員、消防団員、市長、住職、葬儀屋など、彼らのしたことが重ね合わされて、遺体の発見、安置所への搬送、安置所での取り扱い、埋葬までの過程があぶり出される。だが、著者は様々な登場人物の中から、民生委員の千葉淳を最初に登場させる。
わたしは、この人が釜石市の「おくりびと」として描かれていると感じた。彼は葬儀社に長く勤め、今は引退して民生委員をして暮らしている。その彼でさえかつて見たことのなかった数の遺体と遭遇する。その遺体への乱暴な扱われ方に心を痛め、自ら進んで安置所の遺体の扱いを引き受ける。
千葉の遺体の取り扱いは、生者に対するものと同じである。遺体にも尊厳があり、尊厳を損なう行為は決して行わない。また、遺族に対してもそうである。肉親の死によって遺族の心が損なわれることのないように言葉をかける。遺族はその言葉に慰められ涙を流す。
釜石市では千人を越える遺体を市民の働きによってきちんと弔うことができた。わたしは、このことで釜石市は復興への道のりをしっかり歩んでいると確信できる。これは震災に限った話ではない。人は遺体をきちんと弔うことができて初めて先に進むことができるのだ。
この本を読み始めた頃、ルポルタージュなのになぜ写真が一枚もないのか不思議だったのだが、おそらく写真だと遺体の尊厳を損なうからなのだろう。つまり、この本も鎮魂の書なのである。
(3月19日読了)
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