« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

スコット・フィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』(中央公論新社)を読む

7月31日(金)

村上春樹翻訳ライブラリーの一冊。今年の5月4日に英語の原文の方を紹介したが、それから翻訳を読み終えるのにほぼ3ヵ月かかってしまった。日本語で読んでも意味がすっと入ってこない表現もけっこうあって、一気には読めない作品だった。

大きな話の流れは英文を読んだときと印象は変わらなかったが、翻訳で浮かび上がったのは、語り手は初めから上流階級に属する男であり、ギャツビーは労働者階級からの成り上がりであるという点である。そのためかギャツビーに対する語り手の口調はどこか冷やかで、ギャツビーの魅力とともに、どこか洗練されない部分がさりげなく描かれたりする。いったいギャツビーのどこがグレートなのか、翻訳を読んでもよくわからないくらいである。

この作品に引かれるような人は、本人に成り上がる野心があって、本気で上流階級と渡り合おうと考えるようなタイプなのではないか。そういう意味では、この作品は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』に似ている。そしてこちらの方は吉本ばななが絶賛している。

村上春樹は訳者あとがきで、今までの人生で巡り合ったもっとも重要な一冊として、この作品を挙げている。どこがそんなにすごいのかわたしにはわからなかったが、村上はそういう人には、これが「すごい作品」でないのなら他のいったい何が「すごい作品」なのかと言いたくなるそうだ。

わたしは、村上のように直接にはこの作品の魅力が理解できなかった。せめて次に野間正二の「『グレート・ギャツビー』の読み方」を読んで、作品への読みを深めてみたい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

北野誠著『死んだら、あかん』(メタモル出版)を読む

7月6日(月)

北野誠は、わたしにとってはTBSの「噂の!東京マガジン」のレポーターとして親しみを持って見ていたお笑いタレントの一人である。でも関西ではむしろABCラジオの「サイキック青年団」で有名だったようだ。今年の3月に21年続いたこの番組は終了し、その後、北野誠は一切の芸能活動の無期限の自粛を宣言し今に至る。原因はこの番組でのトークにあったらしい。芸能界の噂話的なトークだったらしいが、相当過激で、ついにバーニング系の大手芸能プロが抗議し、番組の終了と北野の自粛という結果になったようだ。

この本は、これがきっかけになったのか、北野の今までの人生を振り返るものになっている。拙い文章だが中味は壮絶で、特に父親の心の病と焼身自殺の記述は圧倒的である。

北野の父親が死んだのは53歳の時で、北野も今年50歳である。「死んだら、あかん!」は、同世代へのメッセージだが、同時に自分に言い聞かせているようにも読める。わたしも同世代として北野には「死んだら、あかん!」と言いたい気分である。そしてまた「噂の!東京マガジン」にも戻ってきてもらいたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

村上春樹著『1Q84 BOOK2〈7月-9月〉』(新潮社)を読む

7月1日(水)

BOOK2は一気に読み終えた。天吾と青豆はいつのまにか30歳になっていた。お互いを初恋の相手であり唯一の愛の対象として思い合いながらも、けっして出会うことのない二人。やがて青豆は天吾が自分と同じ世界に入り込み、同じ相手と戦っていることに気づく。青豆は究極の選択を突きつけられる。天吾が死んで青豆が生きる世界と青豆が死んで天吾が生きる世界。青豆の選択した道はどちらか。

この小説は様々なレベルでの読みが可能で、その分、読者は様々な読み方を楽しむことができる。大きく捉えると、この小説は、遺伝子の目的性と人間の自我との矛盾を、リトルピープルとアンチ・リトルピープルとの戦いとして描いたものと言うことができる。また、人間の自意識を中心に考えると、意識といきなり訪れる外部の悪意との戦いの物語とも言える。ただ、その中心にあるのは、相手が遺伝子であろうと悪意であろうと、最後に人間を救うのは他者への愛であるという確信、である。それは隣人への普遍的な愛とはちがい、ただ一人を強く愛していればそれでいいと作者は考えているようだ。

はたして続編はあるのだろうか。あるとしても、天吾と青豆の物語とはまったく違う物語となるだろうとは推測できる。

(6月29日読了)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »