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2008.12.31

大村敦志著『父と娘の 法入門』(岩波ジュニア新書)を読む

12月31日(水)

本書は民法学者の著者が法について考える時のその考え方の勘所を、自分の娘と対話する形式で語ったものである。具体的な法律についての話ではなく、そもそも法とはいったい何なのかという基本的なところの話で、著者はそれを法学教育ではなく法教育と言っている。つまりこの本は法教育の本なのだ。面白いのは、それが人間と動物との関係の中で語られていることである。

人間にとって動物とはペットであったり家畜であったり、狩りの対象であったりする。最近では、補助犬のように人を助ける動物も出てきた。本書ではそうした関係を法はどのようにルール化しているかが語られる。その中で、法とは社会を支えるためにあること、その法も常識によって作られること、反対に法が社会の常識を変えることもあることなどが説明される。

法律や契約の条文はどこかお固くて近づきがたいけど、こうやって本書を読んでみると、やはり社会の複雑な出来事をルール化するためには、ある程度抽象的でまわりくどい表現になるのも仕方ないのかなという気になる。でも、書かれていることは社会の常識に基づいたものだから、よく読めば理解できるはずなのだ。

日本でも来年5月から裁判員制度が始まる。巷には法律の知識を持たない一般人が裁判員なんて務まるのかという不安があるようだ。しかし社会人と法の専門家が話し合うことは、まさに常識と法とを擦り合わせることであり、それこそが本来の裁判のあり方なのだ。わたしたち一般人はただ自分の常識を語ればいいだけのことだ。

ただ、実際に裁判員として参加する前に、法教育の講習なりあった方がいいかもしれない。その方がよけいな心配をしなくてすむからである。本書はその際のいい参考書になるはずである。


今年わたしのブログを読んでくださったみなさん。ありがとうございました。よいお年を。

2008.12.14

真木悠介著『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』が岩波現代文庫に

12月14日(日)

社会学者・真木悠介の名著で永らく絶版だった『自我の起原』が岩波現代文庫として復活していたので、ここにお知らせしたい。内容については、このブログの2008年3月31日(月)に紹介している。

2008.12.11

宮台真司著『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』(世界文化社)を読む

12月11日(木)

わたしは著者の宮台氏には社会学の著作を通じてよりも、TBSラジオ「荒川強啓のデイキャッチ」の金曜コメンテーターとして親しみを感じている。その日の10大ニュースを読み上げるコーナーで、各ニュースに毒舌口調でからかい気味の鋭いコメントを浴びせる。口が悪くて早口だけど、ニュースの背景を簡潔でわかりやすく説明してくれるという印象を持っていた。

この本では氏の毒舌は封印されている。どういうわけか(失礼!)、とてもまじめなのだ。あとがきを見ると、自分の2歳の娘が14歳になったら何をどう語るかと考えながら書いたのだという。なるほど。ただ、毒舌ではなくても、氏の説明が簡潔でわかりやすいことに変わりはない。

しかしわかりやすいのは語り口だけなのかもしれない。氏の考え方をまとめようとするとけっこう難しい。わたしがここで説明するよりも、実際に本を読んだ方がはるかにわかりやすいはずである。それでいてわたしのような40代後半の男が読んでもハッとするような知見に満ちている。「これからの社会を生きる君」のためになる本であることはまちがいない。

(12月10日読了)

2008.12.06

山城新伍著『おこりんぼ さびしんぼ』(廣済堂文庫)を読む

12月6日(土)

副題は若山富三郎・勝新太郎無頼控とある。著者の山城新伍はかつてTVのクイズ番組の司会などタレント業でも活躍した人だが、本職は映画俳優である。昭和32年に東映のニューフェイス第4期生に選ばれ役者人生を始める。その中で、ひょんなことから若山富三郎と出会い、若山とその弟の勝新太郎と彼らの死まで深くつきあうことになる。この本は、そんな著者ならではの若山と勝の破格のエピソードに満ちている。

おこりんぼでありさびしんぼである若山富三郎とその弟の勝新太郎。著者は最高の愛情を持って、この魅力ある人間たちを描いている。その文体は、ユーモアに彩られながらも、基調は哀愁に満ちている。彼らとの永遠の別れが、かつては存在した映画の独特な世界の喪失をも意味しているからだ。

この本はタレント本史上に残る名著と評価されたが永らく絶版で、今回ようやく文庫として復活した。その復活を強く薦めたのがルポライターの吉田豪で、氏が解説を書いている。その解説もどこか壊れていておもしろい。名著かどうかわたしにはわからないが、無類におもしろい本であることは確かだ。

(12月4日読了)

2008.12.02

岩井克人著『資本主義から市民主義へ 聞き手=三浦雅士』(新書館)を読む

12月2日(火)

著者の岩井克人は、1980年代の『ベニスの商人の資本論』以来、現代思想の分野で才気あふれる発言を続ける経済学者だが、この本でも相変わらず、読者に鋭い視点を提供している。聞き手が雑誌『現代思想』の編集長である三浦雅士ということから、著者の思想が現代思想全体の見取り図の中で意味づけられてゆく。

内容は章ごとに、貨幣論、資本主義論、法人論、信任論、市民社会論、人間論に分かれる。著者は貨幣から話を始める。貨幣はなぜ貨幣なのか、貨幣だからである。つまり貨幣は自己循環論法によって成立している。自己循環論法ということはその成立に実体的な根拠を持たないということである。資本主義は貨幣を媒介とした商品の交換システムである。ゆえに実体的な根拠のないシステムということになる。労働が価値の実体であるとしたマルクスの理論は、産業資本主義にのみ当てはまる理論と位置づけられる。同じように、言語と法も自己循環論法で成立していることが明らかにされる。

次に著者は、資本主義システム内の会社という組織が、法人というヒトでありモノでもある存在であることを指摘する。実際、会社は建物であり財産であると同時に従業員が働いている職場でもある。株式会社の経営者とは何か。それは、会社という法人の経営を株主に信任された存在である。そこから資本主義というシステムの内部に信用という倫理が埋め込まれていることが明らかにされる。

資本主義という経済システムや法に基づく国家は、それ自体が自己循環論法によって成立しており、いずれも不安定なシステムである。著者は、それを補完するものとして市民社会の存在を必要とすると主張する。経済や政治に還元できない市民社会的な動きというとNPOの活動などが考えられる。そのような市民社会的な活動は一つ一つはいずれ経済や政治に吸収されるが、絶えず、沸き起こって問題を解決するように運動し続ける。

ここまで来ると疑問も生じる。市民社会のような外部(=超越)が資本主義や国家に必要なことはわかる。だが、それは市民社会でなければならないのか。例えば天皇制でもいいのではないか。また資本主義や国家が不安定なシステムと言うのなら、さっさと壊れてしまえばいいとも思えるのだが、どうもそう簡単には壊れそうもない。理論的な不安定性と現実のしぶとさとのギャップの正体は何なのか。

著者の思想は人間の存在論にまで及ぶ。その具体的な展開は次の作品に期待したい。

(11月30日読了)

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