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梁石日著『タクシー狂躁曲』(ちくま文庫)を読む

8月30日(土)

著者の梁石日(ヤン・ソギル)は大阪出身の在日韓国人2世作家で、かつてタクシー運転手を東京で10年間したことがある。この作品は一つの物語ではなく短編集ではあるが、主人公は同一人物で、在日韓国人2世のタクシー運転手である。そのためこの短編集には、作家の経験が色濃く反映しているものと考えられる。

表題からはタクシー運転手の業務の裏話的な物語を期待したが、それは最初の『迷走』で終わり、『新宿にて』、『共同生活』、『祭祀(チェサ)』、『運河』までは、在日韓国人として受ける差別の肌触りや同胞の腐敗や子供時代の無残な経験が語られる。最後の『クレイジーホース』ⅠとⅡにおいて、再びタクシー運転手の話に戻るが、業務というより仕事仲間の話が中心である。しかも現実にはありえないような破滅的な連中の話で、いくらなんでもこれは作家の創作としか思えない。

『迷走』の中で、タクシー運転手は、仕事が終わったらお互いに景気のいい嘘を語り合って、仕事の憂さを晴らすというような記述があるが、この作品全体に感じられるのは、この誇張された嘘の感覚である。でも、無類におもしろいから嘘とわかっても許せてしまう。ただ、このお話の元になる何らかの経験は確かにしているという、リアリティーの芯のようなものも感じられる。

この作品は映画『月はどっちに出ている』の原作だそうで、映画の方も見てみたくなった。

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北京オリンピックが終わって

8月25日(月)

昨日の閉会式で北京オリンピックは幕を閉じた。今月の6日からの19日間、高校野球はほとんど見なかったが、オリンピックは折々にTVで観ていた。やはり4年に1度のイベントは重みが違う。開幕前に注目されていた競技で前評判通りに選手が活躍することもあれば、フェンシングや女子ソフトのように予想外のがんばりを見せて感動をもらったこともあった。反対に野球やサッカーを始め、期待されていたようには勝てなかった競技もあった。またテロの心配がされてたが、厳重な警備のおかげか選手は誰も傷つかなかった。そういった諸々を含めてオリンピックという巨大なお祭りは何とか成功裡に終わったようである。比較的長い期間あったためか祭りが終わった後のような寂しい気持ちもある。

時というものは残酷である。今回活躍した選手のほとんどは衰え、次のオリンピックには出られない。だからこそ、この一瞬の輝きが貴重なのだろう。ただ、人はその一瞬を記憶し反芻することができる。今回も多くの物語が生み出された。メディアは何年もその物語を語りつづけるだろう。人々はその物語とともに自らの記憶を呼び起こすのである。北島、ヤワラちゃん、愛ちゃん、太田、上野投手、ブストス、ボルト、朝原、ワンジル、今回もいろいろな人の活躍を記憶に残すことができそうだ。名前は覚えてないけど、開会式の中国の2人の少女のこともたぶん忘れないだろう。

いろいろ批判する点はいくつもあるけど、この4年に1度のスポーツの祭典はずっと続いてもらいたいと思う。さて、次はパラリンピックが始まる。放映の量は少なくなるけど、引き続きできるだけ注目していきたい。

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野間正二著『『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の謎をとく』(創元社)を読む

8月15日(金)

英語で一度、野崎訳で一度読んだことがあって、それをどう読み解いているのかに興味を持って読み始めた。巷によく見られる文芸評論と違って難しいことは書いていない。でも、わたしにとってはかえってためになる本であった。多くの読者が引っ掛かるであろう謎が説得力を持って解かれていく。小説を読み込むことの楽しさが伝わってくる。

読者の多くは思春期にこの小説を読み、思春期の主人公に感情移入する。しかしこの本は主人公をつき離して語る。いわば大人の視線からの読解である。そして、そう読んでもこの小説は実におもしろい。

当然ながらわたしの読み方の浅さもはっきりする。例えばわたしはこの小説を漠然と1950年代前半の物語と思っていたが、この本では1949年であることが明らかになる。また、主人公は精神病院に入院しているものと思っていたが、この本では明らかにされない。むしろ主人公の不安定ながらも健全な心の動きが語られ、そうではない可能性のほうが高まる。

そして決定的なのは、主人公のライ麦畑のキャッチャーになりたいという夢が元々思いつきにすぎず、しかも最後には、その不可能性に自分で気づいているという指摘である。この小説は魂の彷徨の果てに主人公が成長する物語なのだ。わたしは消耗しきった主人公が最後には精神崩壊する物語と思っていたので、この読みの落差は衝撃だった。

これから他の小説を読む時にも、この本の読み方は頭から離れないだろう。いい本を読ませてもらった。惜しいのは誤植が目立つことで、版を重ねる中で修正してもらいたい点である。

(8月13日読了)

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畑正憲著『人という動物と分かりあう』(ソフトバンク新書)を読む

8月7日(木)

ムツゴロウさんこと畑正憲の科学エッセイ。長年の哺乳動物の飼育の経験から哺乳動物の発育に共通する法則を見出し、それを現在の脳科学の知見と結び付ける試みを主に記している。もちろん人間も動物の一種であり、現代の少年犯罪と脳の発達の条件との関連についても考察している。新しい学問として確立するかはともかく、非常に密度の濃い観察からしか得られない知見に満ちていておもしろかった。

ただ畑正憲はかつてローレンツの『攻撃』を思弁的と批判した。それと同じくらいこの本も思弁的であるのは確かだ。氏自身がテレビで「本で得た学問的知見を書くのを今まで封印していたがこの本で解禁した」と言っていたが、同時にそれは氏のかつて批判していた思弁的な文章を自身に解禁することでもあるはずである。

(2006年4月30日読了)

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小泉義之著『病いの哲学』(ちくま新書)を読む

8月1日(金)

病いの哲学とは、不治の病の哲学のこと。不治の病にかかった人は、長らく、死へと傾斜する存在としてのみカテゴライズされてきた。また、移植手術の発達から、脳死状態の人は死んだと見なされ、生きたまま臓器を取り出されるようになった。不治の病や脳死移植について哲学すると、生と死の境界でのぎりぎりの思考が見えてくる。

著者は、ソクラテス、ハイデッガー、レヴィナスの哲学から、死の哲学、犠牲の哲学を抽出する。そしてそのような哲学を死に淫する哲学と評する。一方、死に淫する哲学に対抗する哲学として、プラトン、パスカル、デリダ、ジャン=リュック・ナンシー、フーコーの中から、病いの哲学、病の末期の哲学を抽出する。また、医療の社会学的な意義を考えるため、パーソンズに学ぶ。

この本から見えてくるのは、わたしたちの社会は、不治の病にかかることの価値を軽視してきたということ。もう少し、死に淫することなく、生そのものを見つめると、不治の病の人に固有の実情が価値あるものとして見えてくる。いくぶんは著者独特の煽りにだまされているような気もするが、たぶん、わたしたちの社会は根本から変わる必要がある。

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