2021.01.24

1985年1月頃に書いた文章

1月24日(日)

1985年1月頃に書いた文章を載せます。当時わたしは鹿児島大学の学生で、民俗研究会というサークルに所属していました。民俗研究会の主な活動内容は、鹿児島県の離島に出かけてお年寄りから昔話や昔の生活について聞き書きをしてそれを調査報告書としてまとめるというものでしたが、わたしはそれを利用して相当自由に文章を書いていました。この文章は当時のフェミニズムから学んだものが反映されています。当時鹿児島にいた23歳の男がフェミニズムをどう受け取り消化しようとしていたのか。今読み返すとひどい文章ですが誤字脱字を含めてそのまま載せます。ご容赦ください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

女にとって社会とは何か―近代と近代以前ー

はじめに

わたしの母が社会に出て働くようになったのは、わたしが小学5年生の時だった。その前に1年間、洋裁学校に通っていたから、わたしの妹が幼稚園に通っていた頃には、もう社会に出る気でいたことになる。母は「女も経済的に自立しないとダメだ」と言っていた。今でも覚えているくらいだから口癖になっていたのだろう。

母がまず勤めたのは小さな洋服屋である。洋裁学校からの紹介だった。月給は確か7万くらいであった。1日中狭くて暗い部屋の中でミシンを動かしてもそのくらいにしかならないのでは自立どころではない。毎日くたびれて帰るようになっただけである。2年間くらい勤めたであろうか。ある日、店から帰ってきた母は「クビになった」と言った。一所懸命働いても、雇い主の都合次第で簡単にクビである。

それからの母は、保険のセールス、鉄工所の事務員、ベッコウ店の店員、フトン屋の店員、電機会社でのベルトコンベア作業員と、いろんな仕事を転々とした。それらは社会で「主婦のパート」と呼ばれる種類のものなので、経済的な自立を得るには程遠い給料ばかりであった。結婚する前は三菱重工のOLだった母にとって、経済的な自立のできない今の社会は屈辱に満ちたものだったであろう。

・・・

女性が社会へ出て働くようになったことを、女性解放の証拠としてあげている意見をよく見かける。しかしわたしはそれを部分的にしか認めない。結婚を理由に1度退職した女性が、育児に手間がかからなくなったというので再び同程度の会社で同じ仕事に従事しようとしてもなかなか難しく、大部分は主婦のパート労働という底辺の労働に従事してしまうのである。これが女性の解放と言えるだろうか。

一方、「男は外に、女は家に」という人もいる。これは今も男の大部分の意見である。彼らは女は家にいるものなのに、近頃は社会に出て働きたがる者が増えて困ると言う。わたしはこの意見も認めない。本当に昔から女は家にいるものであったのか疑問だからである。

では、わたしの意見は何であろうか。女が社会に出て働くことにどんな意味があるのだろうか。それを述べる前に、まず、今の社会が成立する以前において女はどうあったのかを考えてみたい。それから今の社会がいつごろどのようにして成立していったのかを示し、その中で女がどうなっていったのかを考えることで先の問題に答えてみたい。

・・・

昨年の夏に民俗研究会の一員として沖永良部島和泊町の民俗調査に参加した。わたしの調査の目的は、今の社会が成立する以前の人々の生活を具体的に知ることであった。成果はあまり得られなかったが、それならそれなりの報告をするしかないだろう。本論文の第Ⅰ章において、調査の結果わかったことを述べてみる。女がその社会においてどうだったのかをそこで示してみよう。

 

Ⅰ 近代以前の社会―調査結果をもとに―

ここで「近代」という言葉を使うのは、この言葉が歴史学において「今の」社会を意味するからである。とはいえ「現代」とも違う。今の社会が成立してから今までのすべてを含む言葉である。それを定義するなら、今の社会とは、すべての生活を商品を消費することで成り立たせている社会である、と言えよう。

沖永良部島では、第二次世界大戦の前までは、ほぼ自給自足だったという。もちろん近代化の波をこの島もかぶりつつあったから、貨幣は流通し、商品もでまわっていた。しかし近代以後の特に都市生活者に典型的に見られるような、すべての生活を商品を消費することで成り立たせる生活形態ではなかった。その頃の島民は、ほとんどの生活必需品を自分で作っていたのである。だから近代以前の社会は、島のお年寄りの若かった頃のことを聞けば、想像できるハズである。

 

1. 身につける物

(1) バショウの着物―夏の着物―

庭に植えてあるバショウの葉を裂き、鍋の中に入れてやわらかくなるまで灰汁で煮た後、竹の道具ではさみつけてしぼると繊維がとれた。これは乾かして、丸く巻いて保存しておく。これを機にかけて織り、着物をつくったという。サラサラして風通しがよく丈夫で、亜熱帯の島で夏に働く時にたいへん適している着物であり、島では男女とも着ていた。形は男女いっしょで、模様に差があった。各家ごとに女がつくっていた。

(2) 冬の着物

綿を栽培し、蚕を飼って、綿糸や生糸をとっていた。縦糸に絹糸、横糸に綿糸を使って織った布を使って着物をつくった。男女で模様が異なり、男のは大きく、女のは小さかった。女は嫁にいくまでに、つくり方を習うものだった。

(3)はきもの

ふだんはワラゾウリをはいていた。ゲタも軽い木なら何でも使って、作っていた。晴れ着の時、沖縄のシュロ、ビローでできたゾウリをはいた。ワラゾウリやゲタは、男がつくっていた。

 

2. 食

(1) 食べる時間

朝5時頃起きるとまず田や畑へ行き、朝8時か9時頃いったん家へ帰って朝食をとる。それから仕事に戻り、おてんとうさまが真上に来た頃に、家へ帰って昼食をとる。夕食の時間は、内容によってまちまちだが、だいたい夜9時くらいで、忙しい時は、さらに遅くなることもあった。

(2) 食べるものと飲むもの

① 主食

主食は米飯ではなく、カライモをふかしたものであった。植える時期はいつでもよかったので、必要な時に必要なだけ、畑からとってきて食べていた。

② おかず

A. みそしる

みそしるは、3食ともついた。みそは、麦や、ソテツの実、大豆からつくる。

B. つけもの

A、Bがふだんのおかずだった。つけものとしては、大根や、にんじん、にんにくなどがあった。にんにくは、葉や茎も利用した。パパイヤのつけものは、最近になってつくられるようになった。

C. その他

魚が手にはいった時には、塩干しにしたり、みそ煮にしたり、刺身や焼き魚にしたりした。他には、ブタ肉を塩づけにしてつぼに入れ保存食にしたりしていた。また浜に生えるノビロを天ぷらにしたり、よもぎ、ツワブキ、アザミなど、野生の植物を利用したりした。

③ おかし

小麦粉をこねたものを油であげたものや、モチ米を粉にしてシャネン(?)に巻いて蒸したもの、米の粉と黒砂糖とでつくるユキミシというものなどがあった。

④ 飲みもの

A. 茶

豆茶やよもぎ、麦茶などをつくっていた。

B. 酒

主に焼酎をつくっていた。原料は、カライモや麦、ソテツの実、もしあれば米を用い、まとめてつくっておいた。ふだんはあまり飲まず、命日や誕生日、節句等に飲んだ。

C. タバコ

ナワにつるして乾燥させ、丸いカゴの中に保存しておく。飲む時には、左図のように小さなまな板の上にタバコの葉をのせ、そのうえに板を重ねて、板をずらしながらでかい包丁で小さく刻んだものを用いる。

D. 水

沖永良部島は石灰岩質の島であるため地上に出ている川は少なく、暗河(くらごう)と呼ばれる、地下を流れる川が多い。昔はそこから女の人たちがカメに水をくんで、頭にのせて運んでいた。ふつうは朝はやくくんできて、必要になると昼からもくみにきた。女の子も手伝いをした。

E. 非常食

台風等のために主食のカライモが不作の時は、ソテツを利用した。利用するものは実と幹である。ソテツの実は、割ってから干して乾燥させ、それを粉にし、火を通して食べたり、おかゆにして食べたりした。ソテツの幹は、外のウロコをはずして、ナタで削り、干して雨日にさらし、かますに入れて発酵させ、ウスでついて粉にし、おかゆにして食べたりした。

 

3.生業

(1) 稲作

① 種まき

2月~3月の初め頃に男がまいていた。

② 田植え

4月頃に主に女が植えた。でも男がしないことはなかった。男は主に、ひもはりや苗くばりをした。

③ 稲刈り

7月中旬までに男女で刈ることになっていた。田んぼはその後、耕し、水を貯めて年を越す。

④ 脱穀

脱穀は男がした。下図のような道具に刈り取った稲を挟んでひっぱって脱穀した。ただ、(以下空白)?

⑤俵詰めは男がした。

(2) 畑作

① 作物

特に今も盛んなのはサトウキビである。他には、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、落花生、ニンニク、カライモ、ユリ、サトイモなどが作られていた。

② サトウキビ

A. 植えつけ

春植えと夏植えがある。

B. 収穫

春植えのは1年後に、夏植えのは1年半後に収穫する。刃の厚いカマ(クワ)で、男が刈り、女は枯れ葉(ファーマ)をとって、火をたいて汁をわかす。

C. 製糖

2、3軒で1つ広さ4坪くらいの製糖小屋を畑に建てた。そこで、朝早くから夕方まで約3回製糖した。1回に4~5時間を要する。

(3)家畜

① 牛

草原でつないでおき、夕方に小屋にいれていた。世話は男がし、草刈りは娘も手伝った。

② 馬

さとうきびをしぼる機械につなげて、ひっぱらせたりした。

③ ヤギ

肉用。乳はしぼらなかった(?)

④ 豚

正月に1年分塩漬けにし、つぼにいれておき、命日や誕生祝い、入学卒業時などに出した。

⑤ ニワトリ

昔は離し飼いだった。

 

4. まとめ

以上をまとめると、近代以前の社会においては、外でも家でも女が関わる割合がたいへん大きいことが言える。今の社会における賃労働にあたる生業を見ても、男と女の協同作業によって成り立っているし、衣食にしても、原料の採取から、加工までのすべてを女の手で行なっている。ということは、近代以前の社会では、「経済力」があったのは、むしろ女だったと言えよう。政治的な側面がどうであったのかはわからないが、「経済力」=生活を支える力は、女の方が強かったのである。

 

Ⅱ. 近代社会

1. 近代社会の成立

近代社会は、経済的には産業革命によって成立した。産業革命とは、機械の発明によって生産方法が根本的に変革され、それにともなって社会が変化していく現象をさす。18世紀後半イギリスの繊維工業に始まり、19世紀には欧米諸国へひろがっていった。産業革命によって、石炭・鉄を動力源とする大工場制が確立し、資本家と工場労働者という階級が分化し、人口が都市に集中するようになった。

2. 男はどうなったか

例えばイギリスでは、産業革命の過程で「囲い込み」が行われた。これは、本来は生業であった農業を産業化(金儲けの手段と)するために、農民に割りあてていた土地を国家がとりあげる行為のことである。このため多数の農民は土地を失って、都市へ集まり、賃金労働者になった。つまり、土地の「囲い込み」は、農民を賃金労働者へと「囲い込」んだのであった。

他の国家も、政策として、似たようなことを行なって、農民や手工業者を都市の賃金労働へと追いやったのである。

今、就職は、とくに男たちにとってはあたりまえの行為であるが、それが「囲い込み」により始まった近代社会特有のものだと、どれくらいの人が知っているのだろうか。

3. 女はどうなったか

近代化の過程は、それまで女の仕事だったものを「工場」が奪いとっていく過程だった。紡績機械の発明は、女から手仕事をとりあげて、男の組織(工場)へ移すことを意味した。農業の産業化によって女の仕事がなくなった。ミソやショウユ、塩、酒なども工場で生産されるようになった。水道ができて、女は水をくみにいかなくてもよくなった。

女に残されたのは、洗濯、掃除、料理、育児ぐらいのものである。これらは家事と呼ばれ、家事労働をする女を主婦(または専業主婦)という。日本で「主婦」という言葉が生まれたのは大正時代である。

こうして、近代以前には男よりも「経済力」があった女たちは、家の中へ、男によって「囲い込ま」れてしまったのであった。

4. 今、女が社会に出て働くことの意味

女が社会に出て働くことは何を意味するのだろうか。それは、女が男に「囲い込ま」れることを拒否して、奪われた「経済力」をとりもどそうとすることを意味しているとわたしは思う。

近代社会が成立して、男は、賃金労働者へと囲い込まれてしまった。女は、その男に囲い込まれてしまった。だから女は2重に囲い込まれていたわけである。女は社会に出て働くことで、少なくとも男からの囲い込みをつき破ろうとしているわけだ。

だが、男が女を囲い込むことで成立している社会が、それをそのままにしておくハズがない。様々な妨害が女に向けられる。いろんなワナをしかけて、家へのひき戻そうとする。それでも女は社会に出ようとする。そこで「主婦のパート」を社会は用意する。女が社会に出ても最低の賃金しか出さないようにする。これが、今の社会の現実である。

 

Ⅲ.  これからどうするか

これまで、近代以前の社会と近代社会とにおける女の生活を比較し、むしろ近代にはいってから女は無力になったと論じ、女が社会に出て働くことは、男に奪いとられた力をとり戻すことであると主張してきた。だが、女のこうした行動は社会にしかけられた様々なワナによって妨害されている。この章では、そうしたワナにはいったいどんなものがあるか。ワナを破るにはどうしたらよいのか。について考えてみたい。そこでは女だけでなく男も自らへ刃を向け問い直さなくてはならなくなるであろう。なぜなら、男も囲い込まれた者だからである。

1. 就職におけるワナ

まず以下に、C.ダグラス=ラミス「影の学問、窓の学問」(晶文社)から引用してみよう。

―「うちの会社にはいったら、才能を生かした仕事をやってもらうつもりだ。だけどもし男子社員が『お茶をいれて欲しい』と言ったらどうしますか?」「いれます」と答えなければ就職できない。それははっきりしている。この質問は思想調査なのだ。「私はお茶くみをするために就職するのではありません。おことわりします」と言えば結果はあきらかだ。その会社には就職できない。なぜなら「危険思想」の持ち主だからだ。―

この会社が求めるのは、男を助けていろんな雑事をこなし、結婚したら退職していくような女なのである。こんな会社にはいってもけっして責任のある仕事は持てないし、いつまでも結婚しないで会社に残っていると「ハイミス」と言われて疎んじられるようになっていく。

2.結婚か仕事かという選択

女は結婚したら会社を退職するものだとされている。そこで仕事を続けたくても、結婚が決まると多くの女は退職する。なぜだろう。どうして、女は仕事を続けるべきか、結婚するべきか悩むのだろうか。それは、結婚すると外で働く「主人」のために家事労働をしなければならなくなるからだ。

3.育児期間

結婚した女は、やがて子供を産む。そうするとどうしても数年間は、育児に追われることになる。結婚してもがんばって働いていた女も、この時にやむをえず会社を退職してしまう。ところが、今の社会では、そうした女が、育児期間を過ぎて、再び同じ会社に就職しようとしても、たいへん難しい。よく考えるとこれは、おかしいことである。かりに、彼女がタイピストであったとしよう。彼女がいちど会社をやめて、数年間の空白があったとしても、ふたたびタイプを打つことはできるはずである。なのに彼女が再就職をすることは難しいことなのである。なぜだろう。つまりこれも社会が用意しているワナである。

4.「主婦のパート」

それでも働きたいという女の行動はとめられない。家事労働をしっかりこなしたそのうえで働く場所を求める。その行きつく先が「主婦のパート」である。その収入は最低に安い。今、働いている女は確かに増えている。だが内訳を見るがいい。大部分がこの「主婦のパート」である。その女たちの収入と、「主人」の収入とには何杯もの開きがある。女の「経済力」は、「家計を助ける」ことに費やされる。けっして自立はできないわけだ。

いつしか女は、そんな自分を諦めの目をもって眺め始める。これでいいと思い込もうとする。社会って厳しいものと考える。そう社会は厳しい。へたに逆らわないほうがいい。それに女って無力なものだし、もともと家にいるものだし、「主人」と子供のために家事をするものなんだしね。あーあもうなんだか疲れちゃった。息子が大学を卒業したらもう外で働くのはやめよう。「主人」の収入で十分生活できるのだから。

社会は目的をこれで果すことになる。

5.男と女で家事労働を分担すること

こうした様々なワナをつき破って、女が少なくとも自立できるだけの「経済力」を持つにはどうすればいいのだろう。ひとつの鍵は、家事労働にある。近代になって女は家の中にいて家事労働だけをやればよいことになった。だからたとえ共働きの家でも女はひとりで家事労働をこなしている。「主人」は「家のことをしっかりやる自信があるんなら外で働いてもいいよ!」とか言えば、理解ある男だと見られ、そのうえ台所に立って時々手伝ったりするともう言うことなしだ。

だが、よく考えてみよう。これでは女は男の2倍は働くことになってしまう。「主婦のパート」にしか就けないのも、それが大きな原因なのだ。

ではどうするか。男と女が家事労働を分担すれば問題は解決する。そうすれば結婚するからといって仕事をやめることもないわけだ。男中心の今の社会で、だからといって完全な賃金差はなくならないだろう。しかし少なくとも女は男の収入がなくても生きていかれるくらいには「経済力」を持つことができるハズである。

今の社会では、男が「主婦」を兼業することには大きな抵抗がある。だが、そうすることで女が自立できるのなら、男は女と協力すべきである。それに、それは男が真に自立することにもつながるのである。女を家事労働に閉じ込めることで男は賃労働でこき使われるようになったのだから、男は、女がいなくては満足に生活できないのである。家事労働ができるようになれば、男は真に自立したことになる。そして、打算のはいらぬ男と女の関係は、自立した者どうしにおいて初めて成り立つのではないだろうか。

もちろん、心理的な抵抗だけでなく、実生活の面でも様々な抵抗がある。だがそうしたもろもろの事を乗り越えても試みる価値はあるのではないだろうか。

 

おわりに―最後の囲いを破るために―

以上、かなり荒っぽくはあるが、なんとかはじめにあげた問題に対する解答を書くことができた。おわりに、この論文のテーマを越えて残されている問題をとりあげてみよう。

Ⅱにおいて、近代社会になってから男は賃金労働者として「囲い込ま」れたと書いた。女はその男に囲い込まれたのだが、もしこれから女が男の囲いを破ったとしよう。すると、女は男と同じ位置に立つわけである。

だが、男と女は同じものにまだ囲い込まれたままである。そのままでは男も女も真に解放されているわけではない。これが残された問題だ。

しかしとりあえずは男と女が自分の足で同じ位置にしっかりと立つことである。立つことができたらなら今度は仲良く腕を組んで歩き出すのだ。方向はどこでもよい。必ず囲いにぶつかる。その時は2人でその囲いを破るのだ!

 

参考にした本

「沖永良部島知名町 民俗調査報告書」(鹿児島大学民俗研究会)

I.イリイチ「シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う―」(岩波現代選書)

C.ダグラス=ラミス「影の学問、窓の学問」(晶文社)

フォーラム・人類の希望編「シリーズ プラグを抜く 民衆による平和 平和的ジェノサイドとジェンダー」(新評論)

村瀬春樹「怪傑!ハウスハズバンド」(晶文社)

調査に御協力いただいた方 

国頭 東武吉さん、国頭 名島アイさん、国頭 道村幸英さん、喜美留 伊地知季一さん、喜美留 伊地知マツさん

 

2019.08.07

36年前に書いた文章

8月7日(水)

今年の正月に実家に帰省した時に自分の本や書類を整理した。その時に学生時代(1983年5月、21歳)に書いた手書きの文章の載った文集を見つけた。それをデジタルな記録としてブログに残しておこうと持ってきたのだが、書き写すタイミングを失っていた。意を決して8月3日から作業を始め、今日ようやく書き写しが終わった。ブログ用に表記を若干変えたが、誤字脱字はそのままである(書き写す過程で生じたであろう誤字脱字については気がついたら随時書き直していきたい)。

..。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

屋久島に生きる

はしがき

吉里吉里人は眼(まんなご)は静(すんず)かで鼻筋(はんなすづ)と心(こんごろ)はァ真っ直(つ)ぐで顎(おとげえ)と志(こんごろざす)はァ堅(かんだ)くて唇(くんずびる)と礼儀(れんぎ)はァ厚えんだっちゃ…。屋久島について書こうとするとどうしてもこのフレーズを思い出してしまう。井上ひさし「吉里吉里人」にある吉里吉里国歌である。

1982年夏にサークルで屋久島に行って、屋久原生林保護問題について調べる機会があった。話をいろいろお聞きしている中でおもしろいことがわかってきた。鹿児島に戻ってから新聞・本などを読んで、今、ひとつの結論を出している。それは、屋久島を独立国にしたがっている人たちがいて、ひょっとしたらありえないことではないということである。正確に言うと、種子・屋久文化圏が独立するかもしれないのだ。わたしがなぜそう思うようになったのか。それを今から述べていくつもりである。ただ、これから述べることは、別に独立の可能性について科学的・実証的に論じたものではない。屋久島が独立するかもしれないとわたしが思うようになった屋久島での体験、わたしが現在知り得ていることをほぼ生のままだすことになるだろう。

字句の用法の不正確さ、書いた本人のいいかげんぶりもあって何を書いているのかよくわからないものになってしまった。それでも読んでくださる人には、「どうもごくろうなことで…」と言うしかすべはない。

1983年5月 鹿児島の四畳半にて

I. 屋久島に国有林が生れてから

ここでは大山勇作氏の「屋久原生林からの告発」をもとに述べていくことにする。

屋久島の山のほとんどが国有林になったのは、明治初期の地租改正の時である。この時は「官山」と呼んでいた。島民所有のままであるよりも、その方が無税ですむということで島民は納得した。江戸時代までは、島津氏の統治下にあったとはいえ、小杉谷地区が御領山であっただけで、島は島民のものだったのである。

しかし、明治19年に林区署が置かれると、枝1本伐っても盗伐ということになった。今までどおり木を伐ってもよいようなことだったのにこれでは話が違う。明治32年に官山下げ戻し法が成立したのを期に島民は下げ戻しを申請した。けれどもそれは却下された。そこで明治37年に行政訴訟に踏み切った。16年間もの訴訟の後、大正9年、島民側が敗訴した。

だが、再訴訟の動きがその中で活発になり、島民の対立が起って島内に不穏な空気が流れた。結局は大正10年に協議和解が成立し、島民は屋久島憲法ともいう「屋久島国有林経営の大綱」を得た。いわゆる官民共有林制度が日本で初めて誕生したのである。

翌年、第一次施業案が出された。そこでは「ヤクスギ(枯木立を含む)は禁伐とし、伐株、伐倒木のみ採材する」とされた。しかし昭和8年には「ヤクスギの生立木の伐採は避ける。瀕死木は伐採」、昭和18年には「ヤクスギの伐採はしない」と変っていき昭和28年にはついに「ヤクスギの伐採について特記なし」となった。こうしてヤクスギは、皆伐方式によって、原生林の破壊のなか伐採されていく。

現在では、小杉谷地区は「ヤクスギの墓場」と形容され、上屋久営林署は近いうちに閉鎖されるかもしれないと言われている。

 

Ⅱ 屋久島を守る会

1. 兵頭昌明氏

-オレたちが屋久島を守る会を結成しようと決めたのは大学時代、東京にいた頃だ。3人の仲間と、あんだけ杉を伐りまくっているのになんで島の生活は豊かにならないのかって話をしたんだ。こりゃ何かカラクリがあるにちがいないってね。

-安保世代ですね。

-そうです。あの頃の重さをひきずって生きていますよ。

「屋久島を守る会」の前会長で上屋久町議会議員である兵頭昌明氏を訪れたのは、8月3日の夜のことだった。現在41歳、一湊に住む。

「屋久島を守る会」の前身は「屋久の子会」である。東京在住の屋久島高校出身者の親睦団体として、昭和38年に発足した。初代会長は兵頭氏であった。やがて彼らの耳に屋久原生林乱伐のことが聞こえてくるようになる。昭和44年、兵頭氏は数人の会員と共に屋久島へ行く。原生林保護の声が全国的に高まる中で、どうして島内から声が出ないのか、という疑問のためである。ところが逆に地元の人にやりこめられてしまう。彼らは、「島に住まねば、なにもものは言えない」ことを痛感する。昭和45年に会員の柴鉄生さんが帰島したのを最初に、屋久の子会の会員が続々と帰り、昭和46年春、兵頭氏も帰島した。昭和47年、屋久島を守る会が発足した。その後の屋久原生林保護問題は、屋久島を守る会を中心に展開してきたのであった。

昭和49年のことである(50年かもしれない)。自然環境保全審議会が、原生自然環境保全地域の候補地である屋久島の視察に来た。ところが地元の案内者は、乱伐がもっとも進んでいる場所を避けようとした。これを知った兵頭氏ら屋久島を守る会の会員は、そんなことは許されないと立ちあがった。審議会のメンバーを乗せた車が林道(どこのかはわからない)を登っているところへ彼らはトラックで乗り込んで追いかけ阻止した。朝日新聞などのマスコミ連中も遅れてはならぬと大挙しておしかけた。熱気のこもった雰囲気の中で話し合いがもたれた。結局、審議会のメンバーの一人である荒垣秀雄氏が「君たちの言い分はよくわかった。もう一度視察コースを検討しなおすことにしよう」と言ったことでどうにかその場は収まった。この後審議会は、屋久島を守る会の主張した地域も視察することになったのである。そして、屋久島は、日本で初の原生自然環境保全地域となった。

ーいろいろやりましたよ。オレたちって、考えるよりも先に突っ走ってしまうんですよね。

と言って笑う兵頭氏は、ある面では、わたしとさほど変わらぬ年齢であるかのようである。町議会議員とは思えぬ稚気あふれた人という印象である。人なつっこい笑顔と澄んだ瞳を今でも思い出すことができる。

彼は、中央気象台の羽田空港分室に10年間勤めた。ちょうど10年経ったその次の日に上司に辞表を提出し、「きのうでちょうど10年勤めましたので、最初の予定通り島に帰って別の仕事をします」と言って屋久島に戻った。それからさらに10年が過ぎた。兵頭氏はたしかに島で「別の仕事」をし続けてきた。でも、これからはさらに別の仕事をしていくのだろう。彼は、わたしに「種子・屋久独立論」を話してくれた。種子島、屋久島、口永良部島がまとまれば独立はできる、と言う。少しぐらいは貧しくなるかもしれないが、それでもかまわないと言った。おそらく彼は自分の夢の実現のために活動していくことだろう。

2. 屋久島を守る会の理念

屋久島を守る会の会長は今はいない。代表として長井三郎氏がいる。なぜ会長をしないのかという質問に「オレはみんなの上に立つ『会長』であるよりも、みんなの声を代表する『代表』でいたい」と答える、その彼が言う。

-この島にオレはずっと住み続けたいと思っている。もしかしたらオレの息子が林業をやりたいと言い出すかもしれない。友達にも営林署に勤めているものがいる。その中でオレが自然保護運動に関わっているのは、ただ木を伐るなと言うためではない。どう伐るのが屋久島に住む者にとってよりよい方法なのか、何が屋久島にとってよいことなのかを考えてのことなんだ。

同じようなことを柴鉄生氏も新聞で述べている。

-屋久島の山は島民みんなのものという観点に立ち、島民同士対立するのではなく、本当に島民のためになる国有林経営のあり方を探っていく必要がある。

これがおそらく現在までの屋久島を守る会の理念であろう。第二次世界大戦の後(Ⅰを参照)、営林署は、屋久島の国有林を皆伐方式で乱伐し始めた。一本々々が高価であるヤクスギが島外に大量に流出した。なのに島民の生活は少しも豊かにならず、かえって過疎化が進んだ。乱伐が原因である山崩れ、洪水が何回も起こった。林野庁のやり方に疑問を抱き、このまま中央の言いなりになっていてはたまらないと自然保護運動を起す人がいるのは当然であろう。おそらく彼らは、自らの手で政治を行いたいのだ。“よそ者”に島の生活を左右されることは耐えがたいことなのであろう。種子・屋久独立論が出てくるわけである。

3. 日吉眞夫氏 

日吉氏と会ったのは、楠川の恵命堂という製薬会社の敷地内にある山本秀雄氏宅においてであった。山本氏から話をうかがっている時に、日吉氏のことが話題になった。会うつもりですと言うと、電話で呼んでくれるという。あとで近くの食堂で食事をおごっていただいた時に電話をしてくださった。ところで山本氏は文献収集を趣味とする60歳を過ぎていまだ(今は、かもしれない)ひとり暮らしという人である。彼からは多くの文献を見せていただいたけれど、あらかた忘れてしまった。せっかくの御厚意を生かせなくて悪いことをしたとは思うが、このまま話を続ける以外しかたあるまい。

日吉氏は屋久島で生れ、育った人ではない。かつては東京に住んでいたようである。約8年前、兵頭氏に呼ばれて家族とともにこの地に来た。なぜ兵頭氏が彼を呼び彼がそれに応えたのか、断言できない。でも、たぶん、種子・屋久独立のために彼は来た、とわたしは思う。

彼と話をしていると、やがてこの人はただものではないとわかってくる。無表情である。目は仏像のように半分だけ開いているよう。張りのある低音、論理的な言葉。流暢な東京語。40才代の半ばぐらいか。

-屋久島の自然保護運動の根本の理念についてお聞きしたいのです。

ー「屋久島は御神体である」という恵命堂先代の社長とその周囲の人々の思想が中核にある、とわたしは思います。

ーでも、僕が調べた限りでは、日吉さんの言うことには疑問を感じます。なぜなら、縄文杉、これは「御神体」というか、まあ「御神体」の中でももっとも聖なるものですよね。でも、縄文杉でさえも屋久島の人々のためになるのだとしたら切ってもかまわないという意見を聞きました。

-「御神体」は、自然の「生命」とも言い換えられるでしょう。これは無意識に近いものなのですが、屋久島で自然保護に関わって発言している誰にでも、自然の「生命」を守っていきたいという感情が流れています。

-そうでしょうか。でも屋久島の富をこれ以上流出させてはならないとか子孫に美しい自然を残したいとか何ていうかもっと利害に関わることが根本にあるんじゃないでしょうか。

-利害よりももっと人間の存在自体に関わることが根本です。人間が生きていく上で何が大切か。自然の「生命」である。人間が人間らしくいきるためには自然の「生命」が必要なのです。だからどうしても自然の「生命」を守りたい。これが根本にある感情です。しかし、この感情が表に出る時は、利害に関っているように、理論的、政治的なものにならざるをえないのです。

-具体的にどう表現されるのですか。

-例えば、「生態系のバランスを崩してはならない」とか「屋久原生林を伐採すれば平地の集落が土石流にやられる」また、あなたのおっしゃった「屋久島の富をこれ以上流出させてはならない」などもあります。

-なぜ、理論的、政治的にならざるをえないのでしょう。

-自然の「生命」を守るために、です。

日吉氏との会話はどこかかみ合わず、もどかしい思いであった。このつかみどころのない人物のどこをつつけばいいんだ。

-現在、「屋久住民の生活を守る会」というのがあって、「屋久島を守る会」と対立した立場にありますが、こういった林業関係者の生活者としての声に対して日吉さんはどう見ておられるのですか。

-今のような切り方では屋久島には切る木がなくなります。だから、このままでは林業関係者は遅かれ早かれ失業するでしょう。

-切り方が問題だと言うのですね。

-そうです。どう切るのが良いか手遅れにならないうちに考えるべきです。現在の伐採問題には2つの要素があります。一つは、何百年もの間、自然を(自然の「生命」を)守っていけるよう考えなければならないということ、もう一つは、切り方を考えていく期間に失業する人に対策を施さねばならないということです。みんなが納得のいくような論理が必要です。それから「屋久島を守る会」と「生活を守る会」とは、まっこうから対立しているとは言えないとわたしは思います。彼らの底を流れている感情は、自らの生活と自然の生命との調和を望んでいる点ではなんら違いはないのです。

わたしたちは、それからしばらく沈黙した。わたしはうつむいていて視線をあちこちに移して思考の中に沈み込もうとしていた。やがて日吉氏がポツリと言った。

-わたしの話は、あなたのお役に立てなかったようですね。

-いいえ、ぼくの聞き方が悪いのです。屋久島に来て何人かの人に会って話をうかがいました。どうして会う人ゝがこんなにすぐれた人たちなのだろうと不思議でした。ぼくには彼らが何かやろうとしていると思え、何を考えているのかを聞き出そうとしました。でも聞き方が悪いために、誰からもハッキリした考えをお聞きできないのです。何かあるハズなんだ、この島には。

(日吉氏はぼくの言うことをただ)黙って見ているだけだった。*注:( )は字がかすれてわからないため推測で加筆。

4.これからの「屋久島を守る会」

「屋久島を守る会」は、発足以来、屋久杉を伐るなと主張し、精力的な活動を続けている。これからも彼らは自然保護のために運動していくだろう。

彼らは「自然保護」を活動の目的とした。1982年も、林野庁の第四次施業案に問題があるとして運動を展開した。上屋久町と環境庁が保護の側に、屋久町と林野庁が伐採する側に立ち話し合いが続いた。鹿児島県も間に立って、妥協案が出された。やがて8月23日、環境庁は国立公園の区域を千ヘクタール拡張し、すでに指定を受けている区域2650ヘクタールについても保護を強化すると発表した。この(ことによって、瀬切川流域の屋久杉は)当面禁伐ということで一応解決した。 *注:( )は字がかすれてわからないため推測で加筆)。

ところで「屋久島を守る会」とは、自然保護団体であろうか。もちろんそれもあるだろう。「当面」禁伐である瀬切川流域が再び伐採ということになれば彼らは反対運動をするだろう。しかしそれなら、別に「屋久島を守る会」にしなくても「屋久原生林を守る会」とすればいい。

-どうして「屋久島」を守る会としたのかと言えば、オレたちが、自然保護だけでなく、屋久島のために運動をしたいからさ。

と代表の長井三郎氏は言った。これから屋久島にどういう状況が起り、その中で彼らがどう行動していくのか。

わたしたちは、ここで一人の人物と出会うことになる。この人と屋久島を守る会とが、屋久島をこれから変えていくだろうと調査の過程でわたしは思うようになった。

山尾三省氏。次に彼のことを述べていく。

 

Ⅲ. 聖老人に祈る

1. うわさ

白川山にヒッピーが住んでいるという話を聞いたのは、8月1日わたしたちが屋久島に来た最初の夜である。一湊の人から聞いた。白川山は「しらこやま」と言う人もあれば「しらかわやま」と言う人もある。

一湊から歩いて50分くらいのところにある。話によると数年前から集まってきているという。一湊海水浴場でテントを張って店を開いているヒッピーもいるという。本を書いている人もいるそうだ。おもしろそうだな。わたしは興味を覚えた。

8月3日に、一湊に住む学者永里岡氏に会った時にこのことを話すと、彼は「ヒッピーというのは失礼だよ。山尾さんは詩人であり、百姓、信仰者なんだ」と言って『聖老人』という本を見せてくれた。この時に山尾三省という名を知った。

兵頭氏宅にて。兵藤昌明氏「一見おどおどして頼りなさそうだ。でもとても心が優しくて、絶対に人を傷つけることはしないし、誰とでも会ってくれる。安保(60年安保)の時に全学連の委員長をしていたんじゃないかと私は思う。彼は何も言わないけどね」。兵藤千恵子さん「あの人は仏様のような人です」。

日吉氏との会話の中で。「彼とのつきあいは10数年になります。わたしもかつては白川山に住んでいました」。

後に出てくる白川山の住人安藤氏に尋ねたら、「彼は素晴らしい人だ。ただ、今は周囲の人に遠慮しすぎてひかえめな発言しかしていない。オレは時々はがゆくなることがある。」と言った。

南日本新聞を読んでいる仲間の話では、夕刊に時々寄稿しているという。それで一部読んでみたら、現代文明の批評めいたことを書いていた。

2. 白川山の住人との出会い

わたしたちは、一湊の青少年研修センターで合宿をしている。

昭和2年に建てられ、現在は使われていない測候所を「センター」と名づけている。

ある夜のことであった。わたしたちはトランプをしていた。ふいにあたりの空気が混乱を始めた。悲鳴が起こった。窓の外にあるヘイの上に生首がのっていた。

それが白川山の住人、安藤氏との出会いだった。彼は、酒に酔って窓からはいってきたのである。ひげを長くのばし、目がすわっている。

入り口の方からゴメンナサイと言って困りきった表情の女の人がはいってきた。安藤氏の奥さんで、ヨシエちゃんと安藤氏は呼んでいた。「あんた!はやく帰りましょうよ」「ヨシエちゃん、ちょっと待っててね」

彼らの会話は、なんともほのぼのしたものだった。わたしたちは、なんなく彼らのペースにまきこまれてしまった。彼は、いろいろな話をしてくれた。今24才、白川山で生まれ育ったという。高校卒業後、茨城県の東海原子力発電所(かな?)に就職した。彼は原発労働者がそこでどんなめにあっているかを語った。

原子炉に入った左官屋の左半分がまっ黒になったこと。とてもじゃないが長く勤めるところじゃないと帰ってきたそうである。現在(1982年8月)、電気屋をしている。「オレたちは、毎年台風が来ると大岩がゴロゴロと流れる白川流域に住んでいる。川のことを知らずして生きていくことはできない。守らねばならぬ人を守ることもできない。これが生活するってことなんじゃないのか」「表面だけを見てはならない。ホンモノを見るんだ。屋久島に来たのならほんのわずかな時間でいいからホンモノを見てほしい」と彼は言う。

奥さんは熊本の人。屋久島に来て安藤氏と出会い結婚した。

白川山に一度来てほしい。そうすれば自然とはどんなにすばらしいものか、その自然がどんなに破壊されているかがわかる、と言った。いい夫婦だと思う。

3. 山尾順子さんとの出会い

仲間と二人で白川山に向う。吉田へ行く途中にあるトンネルの手前から行くという遠回りをしてしまう。道を教えてくれた人がそっちの方を教えたからである。暑くてたまらない。近くを流れている川の音がきれいで涼し気だ。しばらく川で水浴びをすることになる。

白川山をめざして舗装された林道を歩いているとやがて小さな家が見えてくる。はっきり言えば掘っ立て小屋である。最初に見える2軒のうち右側にあるのが山尾氏の家である。女の人が子供といっしょに外にいる。「山尾さんはおられますか?」と言うと「サンセイは今、宮之浦に行って留守よ。5時ごろ帰る予定なんだけど…」と彼女は答える。山尾順子さんだ。わたしたちのことは兵頭千恵子さんから聞いていたと言う。シナモンティーとおかしをごちそうになる。外で食べた方がいいよって彼女が言うので道端に座り込んで食べる。

しばらくとりとめもなく話をする。わたしたちが屋久島に民俗調査に来ていること。山尾さんが今していること。彼女は兵頭千恵子さんと子供文庫を共同で設立していて、できればそれを測候所に移したいということ。西ドイツの女流作家の本を最近読んで感動したこと。「とてもファンタジックだったわ」と言う。

彼女の声は岸田今日子のに似ていて、聞いていると頭がボーッとしてくるようだ。もっと話をうかがいたかったものである。しかし、山尾三省氏が留守であるために、家の中で待つよりも川で涼んできたらとすすめられたこともあって川へ行く。大きな石がゴロゴロしている。実に涼しい。そしてきれいな水。思わず頭をつっこんで水をがぶがぶ飲む。それから、生れて初めて川の上で本を読み、6時近くまで時を過す。でも山尾氏は帰ってこない。また来ることを約束してわたしたちは白川山を後にする。

ヤギがいる。ニワトリがいる。人が生きている。赤ん坊の明るいこと。恐れるものは何もないって無邪気さ。ヤギにエサをやっていた。2才くらいの子供。大自然の寵児。この子はこれからスクスクと大らかに育っていく。

4. 山尾三省氏との出会い

「ごめんください」と言って入り口の戸をあけて中にはいると、中学生くらいの男子がいたので、「すみませんが、山尾三省さんはいらっしゃいませんか」と言うと、「お父さん、お客さんだよ」と言ってとりついでくれ、山尾氏は1時間くらいなら話ができるとわたしを部屋に呼んでくれた。山尾順子さんもいた。ヤギの乳をごちそうになった。ねばっこくて冷たかった。

-ぼくたちのサークルは、民俗研究会というのですが、調査の時は常識はずれな訪問をするんです。つまり、電話もせずにいきなり行くんですね。それで山尾さんにもそうしたのです。

-おもしろいですね。僕もそういったことは好きですよ。それで、その人がいなかったら?

-その時は帰ればいいのです。ぼくは下宿生活をしていますが、友達の家に行く時に別に電話をかけはしません。とうとつに出かけていきます。いなけりゃいなくてもいい。

-ふむ。

わたしたちは、こんな風に話を始めた。わたしは、彼が信仰しているという聖老人とよばれる杉についても、自然保護についてもあまり話をする気にならなかった。ただ山尾三省という人間そのものを知りたかった。わたしはそれだけに神経を集中し、言ってみれば「対話」をできるように心がけた。

-山尾さんは、自己の思想をどのような形で実践されているのですか。

-そうですね。僕のやろうとしていることは、現代文明というある一つの大きな流れとは別の流れをつくりだすことです。具体的には、有機農業を試みています。

もの静かで、小柄で、とくに笑顔に魅力のある人だった。その人がそばにいるだけで心がやすらぐ、そんな人だった。そういう人に出会ったのは生まれてはじめてだった。「オレとは正反対の人間だな」とわたしは思った。

山尾三省。昭和13年、東京・神田に生まれる。昭和35年早大中退(文学部西洋哲学科)、権力否定、財産共有、共同労働の思想に従い放浪。昭和48年からインド・ネパールを1年間巡礼した。昭和52年、家族と屋久島に移住。農業と文筆業にいそしむ。(南日本新聞。昭和57年1月1日)。

彼の経歴を読んでいくと、60年安保を体験した人であることがわかる。実際、彼の本を読むと、1960年6月15日に国会に突入したらしい。

正直なところわたしは学生運動についての知識をあまりもたない。だから、昭和35年、大学をやめたころ山尾氏が形成しつつあった思想が、学生運動とどう関わっているのか、よくわからない。にもかかわらず、わたしは、彼が兵頭氏と同じように、いや、それ以上に「安保」の重みをひきずって生きているように思うのだ。

ここで本当は、ヒッピーについて論じたいのだ。山尾氏のインドへの傾倒や共同体を創り出そうとする志向は、ヒッピーと共通する部分を多くもっている。だが、いざ書こうとしたら、実はわたしには山尾氏とヒッピーを比較するほどの知識がないのだ、と気がついた。残念である。

「対話」は、さらに続く。さっきも書いたように、わたしは、山尾氏という「人間」を見たかったのであり話の内容よりもそれに対する山尾氏の態度の方が問題だった。というのも、変革する人は、変革される側よりも倫理的に高くなければならないと信ずるからである。1.うわさのところで、兵頭氏や夫人の千恵子さんが言ったことに対してわたしは思わず「そんな人がこの世にいるなんて信じられないな」と言った。ところが本当に「そんな人」がいた。「そんな人」とわたしは話をしていた。

-ぼくの大学は、九州における革マル派の最大の拠点だと言われています。彼らは、文系サークルを統一する自治組織である文連協を組織しています。文連協が今活動の中心においていることは、大学側から文系サークルの予算編成権を奪いとることです。かつて学生は、学友会を組織し、予算編成権どころか予算自体をもっていました。それが10年くらい前に大学側がそこんところはよくわからないのだけれども、「今は学生にまかせられる状況にないので一時あずかる」ということにして、そのままになってしまったのです。ぼく自身は今の闘いに疑問をもっています。つまり権力を奪いとることに意味があるのだろうかと思うのです。

-学生が本来もつべきものを取りかえそうという運動なのだから、意味がないとは言えないでしょう。僕は権力を否定するものですが、それに変わるものとして「秩序」を考えています。あなたの大学の革マル派の人たちがしていることは、僕の言う「秩序」を取り戻すことなのではないでしょうか。

-うーん。そうですかね……そうか。

さっきから脈絡のない書き方をしている。わたしの記憶がハッキリしないので話の順序もデタラメである。ただ、わたしにしてみれば話の内容などどうでもいい。わたしのひとりよがりな話題、己れの頭の中にごったに混ざり合っている観念の表出をそのまま気持ちよさそうに彼は受けいれてくれた。けっして退屈そうでなく、わたしの言うひと言ゝをあるがままに…それは、わたしにとっても心地よいものだった。

-ぼくは、昔からおかしな感覚にとらわれています。高2くらいからですが、なんて言ったらいいのか、つまり、「存在」というものが実感できにくくなったのです。いちばんひどかったのが高2のころでした。

-ふむ、それは。

-なんて言うか…あの頃のぼくはぼくでなかったのです。現実はぼくから遠く離れていて…いえ、目の前にあることはあるんだけど、膜がおおっているというか…すべての人間はよそよそしい物体にすぎなかった。…目の前にネコがいるとしますね。ほら、そこにいます。それが不思議なのです。ほんとうに感覚がネコを拒むのです。

-そういう自分の感覚を大事にしなさい。おそらく自分自身への道はそこから始まると僕は思いますよ。

-でも、ぼくはぼくでないんですよ。教室で自分の席に着いていると急に体がフワッとした感じになって、それから急に下に落っこちていくようで、それを支えようと全神経を集中してこらえて…。たぶん頭がおかしかったんでしょう。今でも少しおかしいと思っています。

-ちがう。

-不安だった。あの頃のぼくを知る者は、たぶんぼくのことを利己的で陰気で、オドオドした奴だと思っていることでしょう。でも、冗談じゃない。自分を支えるだけでせいいっぱいの人間がどうして他人のことを考えてやれるでしょう。思いやりは強者の持つ感情です。

-でも、あなたはそこから出発するしかなかった。

-そうです。実感があてにならない以上、信じられるのは頭しかありません。ぼくが、自分の感情を自己の行動の基準にしなくなったのはそれからです。その考えは、かなり変ってきていますが…。

「対話」は、1時間半くらい続いた。あたりは静かだった。その中で2人の低い声が響いていた。大きな声を出す必要はなかった。わたしは充実した喜びに満たされていた。

山尾氏を屋久島によび、家族で住まえるようにしたのは、屋久島を守る会の兵藤昌明氏である。兵頭氏が彼と日吉氏をよんだ。となると、山尾氏も屋久島を変えるために来た人間だということになる。屋久島を守る会と山尾氏は、兵頭氏の言う種子・屋久独立のために協力していくのであろう。はたして、それは実現されるのだろうか。でも、これだけは言えまいか。屋久島が変革されていくのだとしたら、その中心となる人々は彼らであろう、と。

 

Ⅳ. 新たなる共同体をめざして

昭和52年に「ノアの島」というガリ刷りの新聞が創刊された。発行人は、日吉眞夫氏である。以下にあげる文章は、その新聞で、兵藤昌明氏が書いたものだ。彼の考えが示されているので少し長くなるが、引用してみよう。

「海から3キロ、この地に点を記せたことは、僥倖としか言いようがない。大事にしたい。本当に大事にしたい。この島の生態系、ヒトをも含めた生態系の頂点には、7千余年を生き抜き、そして、今もなお生き続ける岳杉がある。この事実をしっかりと受けとめたい。この地はタブーだらけ、タブーでいっぱいだ。しかし『…をしてはならない』ものは何もない。これは言葉の遊びではない。この空間で、したいヒトがしたいことをすればよいと思う。現代はタブーがなくなり『…をしてはいけない』ことが多くなりすぎたようだ。澄んだ空があり、水があり、それより先に『地太』がある。空は風を、風は雲を、雲は雨を。どのように生きようと、この地をどのように変えようと、それはこの地に生きるヒト、生活する人だけの勝手だ。それ以外の人間の勝手にはさせられないことだ。藁は山羊に喰われ、堆肥に刈られる。木は家を造るために倒され、薪にされるために切られる。しかも無用にその生が断たれることはない。ヒトはどうか。

この地が必要とするヒトは残り、タブーを感じ得ぬヒトは淘汰されるだろう。本来のタブーが蘇生し、本来のタブーだけしか通用しない空間。この地がこのような空間になり得た時、ヒトにとってこの島は、ノアの島への可能性に向かって開け始める。始めよう。

あらゆる『…をしてはいけない』ことを取り除くことを。」

新たなる共同体「ノアの島」を創造していくためにまず必要なことは、「本来のタブーだけしか通用しない空間」に屋久島がなることだと兵頭氏は言う。タブーという言葉のあいまいさのために主張が難解になっているのは否めない。しかし、彼がこれまでどう行動してきたかを見れば、その意味は少しはわかってくれるだろう。おそらく屋久島を守る会が今までしてきたことが、彼の主張していることの意味なのである。

吉本隆明という思想家が次のようなことを言っている。「観念に属するものを破壊したい時には、個々の観念にかかわらずに、最上位の観念に打撃を与えるのが唯一の方法である。この中の「を破壊し」、「に打撃を与える」を「を守る」と変えてみてもこの原理は成立するとわたしは思う。

屋久島を守る会がこれまでやってきたことは、観念の次元でいえば、この島の生態系を守ることであった。そのためにはこの島の生態系の最上位にある「ヤクスギ」を守れ、と運動を展開するしかなかった。「観念に属するもの『を守り』たい時には最上位の観念『を守る』のが唯一の方法」なのである。

ところで彼の真の目的は、屋久島をノアの島に変えることである。そのためにはどうすればよいのか。再び吉本隆明の先ほどの文章を単語をいれかえて引用してみよう。「観念に属するもの『を変革』したい時には、最上位の観念『を変革する』のが唯一の方法である。」現在の屋久島は日本国の体系にとって個別的なものである。だから、この島をノアの島という新たなる共同体に変革するには、共同体概念の最上位概念である「日本国」を変革するしかない。つまり、彼らは、日本に対して闘いを挑まねばならないのである。

彼らがやってきたことは原理的には正しい。しかし、本来、この「守る」と「変革」は分かつことのできぬものであろう。本当に「守る」ためには「変革する」しかないのである。そして「本来のタブーだけしか通用しない空間」に屋久島がなった時は、もう屋久島はすでに「ノアの島」なのである

屋久島がこれからどうなっていくのか。わたしは、「ノアの島」が生れることを願うばかりである。さらに種子島、口永良部島との関わりまで論じるべきなのだが、それはわたしの能力を超える。いささか(おっそろしく)無責任な発言ばかりで気がひけてしまう。でも…やはり屋久島には何かあるはずなのである。

 

参考にした本

山尾三省「聖老人」。大山勇作「屋久原生林からの告発」。本多勝一「貧困なる精神 第10集」。南日本新聞「保護行政光と影」「屋久原生林の危機」他関連記事。

調査に協力いただいた方(順不同)

長井三郎氏(宮之浦)。渡辺秀範氏(安房)。永里岡氏(一湊)。兵藤昌明氏(一湊)。兵頭千恵子氏(一湊)。山尾順子氏(白川山)。山本秀雄氏(楠川)。日吉眞夫氏(長峰)。安藤氏(白川山)。安藤ヨシエ氏(白川山)。岩川貞次氏(宮之浦)。山尾三省氏(白川山)他。

最後に上屋久町役場及び教育委員会の方々にお礼を申しあげます。

ありがとうございました。

2019.07.15

読んだ本39冊

7月15日(月)

気がつくと1年近くブログを更新していなかった。その間に本を39冊読んだのでここに記録しておきたい。

1.福嶋隆史著『“ふくしま式200字”メソッドで「書く力」は驚くほど伸びる!』(大和出版、2013)2018年8月16日読了。

2.見田宗介著『現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018)2018年9月3日読了。

3.魚川祐司著『だから仏教は面白い!』(講談社+α文庫、2015)2018年10月10日読了。

4.鴨長明著・市古貞次校注『方丈記』(岩波文庫)2018年11月22日読了(ただし本文と解説のみ)。

5.マーク・ブキャナン著、水谷淳訳『歴史は「べき乗則」で動く』(ハヤカワ文庫、2009)1月7日読了。

6.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!1』(講談社青い鳥文庫、2014)1月13日読了。

7.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!2』(講談社青い鳥文庫、2014)1月15日読了。

8.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!3』(講談社青い鳥文庫、2014)1月17日読了。

9.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!4』(講談社青い鳥文庫、2015)1月19日読了。

10.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!5』(講談社青い鳥文庫、2015)1月20日読了。

11.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!6』(講談社青い鳥文庫、2016)1月23日読了。

12.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!7』(講談社青い鳥文庫、2016)1月25日読了。

13.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!8』(講談社青い鳥文庫、2016)1月28日読了。

14.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!9』(講談社青い鳥文庫、2017)2月1日読了。

15.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!10』(講談社青い鳥文庫、2017)2月2日読了。

16.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!11』(講談社青い鳥文庫、2017)2月4日読了。

17.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!12』(講談社青い鳥文庫、2018)2月7日読了。

18.宮下恵茉/作、染川ゆかり/絵『キミと、いつか。すれちがう"こころ"』(集英社みらい文庫、2017)2月11日読了。

19.宮下恵茉/作、染川ゆかり/絵『キミと、いつか。 ひとりぼっちの"放課後"』(集英社みらい文庫、2017)2月15日読了。

20.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!13』(講談社青い鳥文庫、2018)2月18日読了。

21.宮下恵茉/作、kaya8/絵『龍神王子!14』(講談社青い鳥文庫、2018)2月23日読了。

22.宮下恵茉/作、染川ゆかり/絵『キミと、いつか。 "素直"になれなくて』(集英社みらい文庫、2018)2月26日読了。

23.宮下恵茉/作、染川ゆかり/絵『キミと、いつか。 本当の"笑顔"』(集英社みらい文庫、2018)2月28日読了。

24.宮下恵茉/作、たかおかゆみこ/絵『ロストガールズ(Lost Girls)』(岩崎書店、2009)3月2日読了。

25.宮下恵茉著『ガール!ガール!ガールズ!』(ポプラ文庫、2012)3月6日読了。

26.宮下恵茉/作、染川ゆかり/絵『キミと、いつか。 夢見る“クリスマス”』(集英社みらい文庫、2018)3月11日読了。

27.宮下恵茉/作、カタノトモコ/絵『つかさの中学生日記 ポニーテールでいこう!』(ポプラポケット文庫、2013)3月16日読了。

28.『真野恵里菜メジャーデビュー10周年記念フォトエッセイ「軌跡」精一杯の“ありがとう”をみんなに……』(ワニブックス、2019)3月21日読了。

29.宮下恵茉/作、染川ゆかり/絵『キミと、いつか。 ボーイズ編 ぼくたちの“本音”』(集英社みらい文庫、2019)3月26日読了。

30.宮下恵茉/作、鈴木し乃/絵『スマイル・ムーンの夜に』(ポプラ社、2018)3月30日読了。

31.梶尾真治著『黄泉がえり』(新潮文庫、2002)4月17日読了。

32.宮下恵茉/作、kaya8 /絵『龍神王子! 15』(講談社青い鳥文庫、2019)4月21日読了。

33.小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉 ー戦後日本のナショナリズムと公共性ー』(新曜社、2002)本書は2006年版。4月22日読了。

34.梶尾真治著『黄泉がえり again』(新潮文庫、2019)5月16日読了。

35.蒼井優、菊池亜希子責任編集『アンジュルムック』(集英社、2019)5月27日読了。

36.小池一夫著『人生の結論』(朝日新書、2018)6月2日読了。

37.横川寿美子著『初潮という切札 〈少女〉批評・序説』(JICC出版局、1991)6月17日読了。

38.荻上チキ、ヨシタケシンスケ著『みらいめがね それでは息がつまるので』(暮しの手帖社、2019)6月26日読了。

39.梶尾真治著『怨讐星域 Ⅰ ノアズ・アーク』(ハヤカワ文庫、2015)7月10日読了。

以上。

2018.08.10

カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『日の名残り』(中公文庫、1994年)を読む

8月10日(金)

原典は『The Remains of the Day』で1989年の作であり、長編としては第3作めである。この作品で著者は、イギリスで最も権威のある文学賞であるブッカー賞を受賞した。日本語訳は1990年に中央公論社から出版された。

過去2作の長編では日本人が主人公だったのだが、3作目の本作では1950年代のイギリス人の老執事を主人公にした。日本語訳しか読んでいないのだが、それでも執事らしいていねいな言葉づかいと生真面目な性格は伝わってくる。最初はイギリス人の老執事の話とかとっつきにくいのではと思ったのだが、こなれた日本語訳のおかげもあって、読み始めたら実に読みやすく最後まで楽しく読み進めることができた。

老執事は1920年代から格式のある大屋敷に勤めている。主人はイギリス人の貴族で忠誠を持って仕えてきた。だがその主人は第2次大戦の後、失意のうちに亡くなり、今ではその屋敷を買い取ったアメリカ人の主人に仕えている。ある日、老執事は休暇をもらい、主人の車を借りて旅に出る。かつて屋敷で働いていた女中頭から手紙をもらい、人手不足であることもあってもう一度、働いてもらえないか直に会って確かめるという目的もあった。

物語は旅行の途中で起こったことと20年代からの回想が、ほぼ時間の流れどおりに交互に進行していく。すべてが老執事の記憶に基づく記述であって、そのため、時々記憶があいまいになったり、ひょっとして間違っているのでは、もしくは自分の都合のいいように解釈しているのではという危うい感覚のまま物語を読み進めることになる。だが、この作品の場合、最後には、執事自身の記述によってすべての真実が明らかになるように描かれている。これは前に読んだ同じ著者の『遠い山なみの光』とは違う点である。

老執事は第一次大戦後から第二次大戦後までイギリス人の貴族に仕えていた。だからその描写は老執事の目から見たイギリスの政治史にもなっている。だが、老執事の苦悩は日本の知識人が同じ時代に経験した苦悩と共通していて、それゆえに日本人が読んでも共感できるのかもしれない。老執事は主人の、日本の知識人は政府の間違いを正すことができなかった。そんな自分を正当化する言葉を探しながらもどこかで自分を卑怯者だったと感じている。

ただ、この小説で老執事は最後に希望を語っていて、その言葉に嘘はないように思われる。それがこの作品の救いになっている。

(8月3日読了)


2018.06.01

カズオ・イシグロ著、小野寺健訳『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫,2001)を読む

6月1日(金)

原典は英語で書かれた『A Pale View of Hills』(Faber,1982)であり、カズオ・イシグロのデビュー作である。原典は8年前に読んで、その感想をこのブログに書いた。

http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2010/07/kazuo-ishiguroa.html

今回、日本語訳で読んでみて、読後感はあまり変わらなかったが、細かい設定を確認できた。また、訳者のあとがきと作家の池澤夏樹による解説で、この作品のテーマと文学的な意義について知ることができた。

英語で読んだ時はこの作品の時代設定を1950年代後半の長崎市と80年代前半のロンドンの郊外と思っていた。だが、本当は朝鮮戦争がまだ続いていた時代の長崎市と70年代後半のロンドン郊外だった。

だが、そうなると奇妙なことになる。作中にケーブルカーで長崎市の稲佐山を上っていくというエピソードがあるのだが、これは描写からロープウェイのことだと推察できる。だが、稲佐山にロープウェイができたのは1959年なのである。また1955年に完成した平和祈念像を見たような描写もある。これを作者が意図して書いたのだとすると、主人公の女性の中で記憶の改変が起こっていることになる。

では、稲佐山のエピソードの少女は誰なのだろう。主人公は万里子として記憶していたはずなのだが、最後の最後に「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」と語って、エピソードとの食い違いを見せる。エピソードではまだ妊娠3、4ヶ月の頃のはずで、それにしてはこの語りは不自然だ。考えられるのは、この主人公が万里子と景子の記憶を混同して定着させたということである。

そう考えると、この小説の表面上のテーマが女性の自立であり、世代の対立であるのだとしても、底流にあるのは著者の文学の根本のテーマである記憶の問題であることが見えてくる。わたしたちは、この主人公の女性の記憶をどこまで信用していいのか、宙吊りなままでこの薄暗い物語を読み終わることになる。

(5月21日読了)

2018.05.16

瀬谷ルミ子著『職業は武装解除』(朝日文庫)を読む

5月16日(水)

知人の転職先がNPO法人「日本紛争予防センター」ということでその理事長の本を読んでみることにした。肩書きから年配の女性かと思ったら1977年生まれというのは意外だった。

読み進めるうちどこかで同じような内容を読んだような気がして本棚を探してみたら、岩波ジュニア新書の『国際協力の現場から―開発にたずさわる若き専門家たち』(2007)の執筆者の一人だった。国際協力の分野では有名な人らしく、著者略歴にも2011年にNewsweek日本版「世界が尊敬する日本人25人」、2015年にイギリス政府による「International Leaders Programme」に選出されたとある。

読み終えた印象は、優れたプレゼンテーションを見た後のような感じだった。武装解除とはどんな職業なのか、なぜこの職業を志したのか、そのために何をしてきたのか、どんな紛争地域で活動してきたのか、現場でのおもしろエピソード、そこで感じた問題点や手法の限界と新しい方法の試み、現在の活動、そして50年後の未来を見据えて日本は何をすべきかまで、よくまとめられている。

著者は現在、国際機関ではなく日本のNPOを活動の拠点としている。日本を選んだ理由として、日本の歩んできた戦後復興の歴史と比較的中立な立場をあげている。日本の戦後復興は今も世界の紛争地で復興の希望となっており、また中立な立場によって他の大国にはできない国際貢献ができるのだと言う。

この本は武装解除と紛争の再発防止、平和構築の活動の紹介を通して、これからの日本の国際貢献の方向性を問うものともなっている。あと、文庫版のあとがきの最後の一文に「夫と娘へ」と書かれてあって、本文にはそういうエピソードがまったくなかったため「いつ結婚したんだ?」と驚いたことも付け足しておく。解説は石井光太(作家)。

なお、著者が理事長をしているNPOのウェブサイトは下のとおり。

日本紛争予防センター(JCCP)

(5月3日読了)


2018.04.19

読んだ本3冊

4月19日(木)

2月から4月にかけて本を3冊読んだので、ここに短く感想を残しておきたい。いつもなら読んで数日後には感想を書くのだが、つい書きそびれてしまっていた。

1. 作:L.M.モンゴメリ、編訳:宮下恵茉、絵:景『赤毛のアン』(KADOKAWA)

ふだん愛読している作家が名作の翻訳を手がけたということで読んでみることにした。100年後も読まれる名作シリーズの第7作目。小学生向けのわかりやすい抄訳で字も大きく、絶妙な場面にイラストがあって読む理解を助けてくれる。それでいて大人が読んでも感動的な物語に仕上がっていた。


(2月8日読了)

2. 望月拓海著『毎年、記憶を失う彼女の救いかた』(講談社タイガ)

モーニング娘。'18の尾形春水が読んで感動したとブログに書いてファンの間で話題になった作品。第54回メフィスト賞受賞作。純愛物語なのだけど謎解きミステリーの要素もあって、飽きずに読み進めることができた。脚本家出身だけあって人物に生身感があって、伏線の張り方もうまい。ただ小説としてはやや不格好な印象。


(3月9日読了)

3. カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『忘れられた巨人』(早川書房)

昨年のノーベル文学賞受賞作家の最新長編。6世紀頃のブリテン島を舞台にした老夫婦の物語。アーサー王伝説を下敷きにしたファンタジーだが、ファンタジーとしては尻切れな感じがする。この作品は著者の文学のテーマである記憶を巡る物語でもあり、ファンタジーの形式を借りて民族の記憶の修正と忘却というより大きなテーマに取り組んだものと見たほうがいいのだろう。


(4月17日読了)


2018.02.18

菅野覚明著『吉本隆明―詩人の叡智』(講談社学術文庫)を読む

2月18日(日)

この本では、吉本隆明という思想家の本質は詩人であり、その思想の本質は詩であるということから出発して、初期の詩の分析から後の吉本思想の重要な概念である自己表出、指示表出、共同幻想、沈黙の有意味性といった概念がいかに生まれてきたかを詳しく論じている。

吉本は、敗戦後に社会の価値観が急激に転換する中で、青春期に詩作を続けながら試行錯誤して確立したつもりだった自己とはいったい何だったのかという精神的な危機に襲われる。だが、尊敬していた詩人・文学者・知識人たちは新しい価値観にあっさりと乗り換え、大衆も過去を忘れたように今の生活に埋没していく。吉本はもはや拠り所となるものが自身の詩だけであり、詩を書くという行為の中にしかないと思うようになる。

そうやって数年の苦闘の末に書き上げたものが『固有時との対話』である。この詩の分析にこの本では1章を充てて詳細に論じている。この詩は詩でありながら自身の詩についての詩論にもなっていて、この中に後の吉本思想のすべてが詰まっていると著者は言う。

わたしもその詩を読んでみたのだが、正直、何を書いているのかさっぱり理解できなかった。それはまるで吉本隆明という前衛芸術家の一人舞台を観ているような感覚だった。何を言っているのかセリフはまったく理解できないのだが、でも今、目の前で何かすごいことが起こっているといった感じだった。

この詩以降、吉本は詩作以外に文芸批評、政治評論の分野でも精力的に著作を発表し発言を続け、いつしか戦後思想の巨人とまで評されるようになる。吉本の思想はわかりにくいのになぜか多くの人を惹きつけてきた。わたしもその一人である。その魅力が自身の詩を源泉としたものだと考えると納得がいく。

(2月4日読了)


2017.12.12

山田英世著『J・デューイ』(清水書院)をよむ

12月12日(火)

この本は教科書で有名な清水書院からでているセンチュリーブックスの人と思想シリーズの1冊である。倫・社の副読本としても学校で採用されているようで、わたしも高2の時に『ラッセル』をよんだことがある。発刊は1966年でこの本は発刊の年にでている。著者は1922年生まれで82年になくなっている。師範学校教授、高校教諭、大学教授の経歴があり、倫理学が専門だったようである。

わたしがJ・デューイに興味をもったのは、Twitterで哲学者の鶴見俊輔botをフォローしていて、ひんぱんに名前がでてくるからである。あの鶴見が信望するような人物がどのような人物なのか興味がでてきて、とりあえず解説書をよもうとさがしたらこの本にいきついたわけである。

J・デューイがアメリカの哲学者・教育者であるためか、この本ではまずアメリカの地理と建国の歴史からはじまる。読者に優しい今風の思想解説書を読みなれていると、そこからやるのという気もするが、考えてみると、高校生の読者はアメリカの歴史をまだ習っていない可能性もあるから、どういう風土からアメリカの思想が生まれたのかを知るにはその方がいいのかもしれない。高校の副読本なら少々退屈な部分でもまじめによんでくれるだろうという期待もできる。

あと、当時の風潮なのか、主に動詞はひらがな表記になっている。また読み方にまよう漢字もできるだけひらがなにしてある。ひらがなにできなくて読みにくい漢字にはフリガナまでふってある。当時の文化人の中では漢字廃止論まであったから、ある時期に漢字をできるだけすくなくした表記をする学者がすくなからずいた。著者も当時の時代の影響をうけているようである。ちなみに今回はその表記をまねしてみた。

この本を最初から最後までていねいによんでいけばデューイの生涯とその思想を大まかに知ることができるのだが、思想の心酔者にありがちな、その思想が著者の思想なのかその思想家の思想なのかがよくわからないところもあって、やはりいずれは直接デューイの本をよんだほうがいいのかなとはおもう。

デューイは当時は進歩的文化人の元祖みたいな扱いで日本の教育界でも評判はよくなかったようである。学生運動でも進歩的文化人は攻撃の対象となった時代だった。その中であえてデューイをとりあげて高く評価しているところに、当時の著者の気概が感じられる。それに、左翼思想が退潮し切った今の日本においてこそ、デューイの思想は再検討されるべきなのかもしれない。そしてそれはデューイを高く評価していた鶴見俊輔や丸山真男など当時の進歩的文化人の思想の再検討をも意味する。そういえば、今年、進歩的文化人・吉野源三郎のかいた『君たちはどう生きるか』を原作とした漫画がブームとなったそうである。

(12月3日読了)


2017.10.30

制服論議より大切なこと(26歳の頃の文章―高校の職員会議にて)

10月30日(月)

最近、高校で地毛を黒髪に染めるように強要されたことに対して裁判を起こした女生徒のことがニュースになっていて、ふと、定時制高校で教員をやっていた頃に書いた文章のことを思い出しました。たしか1988年の9月に書いた文章で職員会議で配ったような記憶があります。当時26歳でした。すでに9月末に退職して青年海外協力隊に参加することが決まっていたので、最後のメッセージのつもりだったのでしょう。以下にその文章を載せておきます。ブログ用に改行の仕方などは変えましたが、誤字・脱字も含めて文章はそのままです。

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制服論議より大切なこと

7月の末から継続中の頭髪・服装指導も、制服を着てこない者は欠課扱いという大詰めの段階に入った。

今回の指導の背景には、「生徒が荒れている」という認識がある。その荒れを克服するために、まず服装を!という訳である。

だが、その考え方は、倒錯している。服装の乱れは、荒れの現象の1つにすぎない。現象の1つを叩いてもまた別の現象が吹き出してくる。イタチごっこを繰り返すだけである。

ではどうすればいいのか。

1.生徒会自治の大幅な拡大

今の学校には生徒同士の交流ができる場が乏しい。クラス全体で取り組む材料が不足している。そのため、クラスとはいってもグループに分かれていてバラバラである。

まず生徒の権限を拡大すること。その権限を使いこなせるよう教師の側から働きかけることが必要である。

楽しいことから始めよう。文化祭を本当の祭りにする。今年の文化祭は、3日間にする。祭りには一切の制約を外す。企画から実現までを生徒会の自治にまかせる。ロックは無条件に演奏できなければならない。模擬店をひらくのもいいだろう。(私は大学祭をイメージしている。ガラスが割れ、車が火を噴き、あちこちでケンカが起こる。3日3晩騒ぎまくり、死ぬほど酒を飲み、あの解放感は、もう2度と味わえない。)

2.生徒への問題提起・クラス討議・臨時生徒会

(1)生徒への問題提起

教師一同の署名を入れ、私たちが現在何を共通の問題としているのかを文書の形で生徒全員に提起する。その時、ただ問題を提起するだけでなくその解決案を出しておくことが重要である。

(2)クラス討論

その文書を元に、クラスで討議する。ここで結論を出すのではない。論議の土壌を作っておくのである。

(3)臨時生徒総会

全校生徒・全教師の参加による臨時生徒総会を開く。ここでは教師にも発言権がある。意見の交換の後、結論を出す。

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