2018.08.10

カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『日の名残り』(中公文庫、1994年)を読む

8月10日(金)

原典は『The Remains of the Day』で1989年の作であり、長編としては第3作めである。この作品で著者は、イギリスで最も権威のある文学賞であるブッカー賞を受賞した。日本語訳は1990年に中央公論社から出版された。

過去2作の長編では日本人が主人公だったのだが、3作目の本作では1950年代のイギリス人の老執事を主人公にした。日本語訳しか読んでいないのだが、それでも執事らしいていねいな言葉づかいと生真面目な性格は伝わってくる。最初はイギリス人の老執事の話とかとっつきにくいのではと思ったのだが、こなれた日本語訳のおかげもあって、読み始めたら実に読みやすく最後まで楽しく読み進めることができた。

老執事は1920年代から格式のある大屋敷に勤めている。主人はイギリス人の貴族で忠誠を持って仕えてきた。だがその主人は第2次大戦の後、失意のうちに亡くなり、今ではその屋敷を買い取ったアメリカ人の主人に仕えている。ある日、老執事は休暇をもらい、主人の車を借りて旅に出る。かつて屋敷で働いていた女中頭から手紙をもらい、人手不足であることもあってもう一度、働いてもらえないか直に会って確かめるという目的もあった。

物語は旅行の途中で起こったことと20年代からの回想が、ほぼ時間の流れどおりに交互に進行していく。すべてが老執事の記憶に基づく記述であって、そのため、時々記憶があいまいになったり、ひょっとして間違っているのでは、もしくは自分の都合のいいように解釈しているのではという危うい感覚のまま物語を読み進めることになる。だが、この作品の場合、最後には、執事自身の記述によってすべての真実が明らかになるように描かれている。これは前に読んだ同じ著者の『遠い山なみの光』とは違う点である。

老執事は第一次大戦後から第二次大戦後までイギリス人の貴族に仕えていた。だからその描写は老執事の目から見たイギリスの政治史にもなっている。だが、老執事の苦悩は日本の知識人が同じ時代に経験した苦悩と共通していて、それゆえに日本人が読んでも共感できるのかもしれない。老執事は主人の、日本の知識人は政府の間違いを正すことができなかった。そんな自分を正当化する言葉を探しながらもどこかで自分を卑怯者だったと感じている。

ただ、この小説で老執事は最後に希望を語っていて、その言葉に嘘はないように思われる。それがこの作品の救いになっている。

(8月3日読了)


2018.06.01

カズオ・イシグロ著、小野寺健訳『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫,2001)を読む

6月1日(金)

原典は英語で書かれた『A Pale View of Hills』(Faber,1982)であり、カズオ・イシグロのデビュー作である。原典は8年前に読んで、その感想をこのブログに書いた。

http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2010/07/kazuo-ishiguroa.html

今回、日本語訳で読んでみて、読後感はあまり変わらなかったが、細かい設定を確認できた。また、訳者のあとがきと作家の池澤夏樹による解説で、この作品のテーマと文学的な意義について知ることができた。

英語で読んだ時はこの作品の時代設定を1950年代後半の長崎市と80年代前半のロンドンの郊外と思っていた。だが、本当は朝鮮戦争がまだ続いていた時代の長崎市と70年代後半のロンドン郊外だった。

だが、そうなると奇妙なことになる。作中にケーブルカーで長崎市の稲佐山を上っていくというエピソードがあるのだが、これは描写からロープウェイのことだと推察できる。だが、稲佐山にロープウェイができたのは1959年なのである。また1955年に完成した平和祈念像を見たような描写もある。これを作者が意図して書いたのだとすると、主人公の女性の中で記憶の改変が起こっていることになる。

では、稲佐山のエピソードの少女は誰なのだろう。主人公は万里子として記憶していたはずなのだが、最後の最後に「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」と語って、エピソードとの食い違いを見せる。エピソードではまだ妊娠3、4ヶ月の頃のはずで、それにしてはこの語りは不自然だ。考えられるのは、この主人公が万里子と景子の記憶を混同して定着させたということである。

そう考えると、この小説の表面上のテーマが女性の自立であり、世代の対立であるのだとしても、底流にあるのは著者の文学の根本のテーマである記憶の問題であることが見えてくる。わたしたちは、この主人公の女性の記憶をどこまで信用していいのか、宙吊りなままでこの薄暗い物語を読み終わることになる。

(5月21日読了)

2018.05.16

瀬谷ルミ子著『職業は武装解除』(朝日文庫)を読む

5月16日(水)

知人の転職先がNPO法人「日本紛争予防センター」ということでその理事長の本を読んでみることにした。肩書きから年配の女性かと思ったら1977年生まれというのは意外だった。

読み進めるうちどこかで同じような内容を読んだような気がして本棚を探してみたら、岩波ジュニア新書の『国際協力の現場から―開発にたずさわる若き専門家たち』(2007)の執筆者の一人だった。国際協力の分野では有名な人らしく、著者略歴にも2011年にNewsweek日本版「世界が尊敬する日本人25人」、2015年にイギリス政府による「International Leaders Programme」に選出されたとある。

読み終えた印象は、優れたプレゼンテーションを見た後のような感じだった。武装解除とはどんな職業なのか、なぜこの職業を志したのか、そのために何をしてきたのか、どんな紛争地域で活動してきたのか、現場でのおもしろエピソード、そこで感じた問題点や手法の限界と新しい方法の試み、現在の活動、そして50年後の未来を見据えて日本は何をすべきかまで、よくまとめられている。

著者は現在、国際機関ではなく日本のNPOを活動の拠点としている。日本を選んだ理由として、日本の歩んできた戦後復興の歴史と比較的中立な立場をあげている。日本の戦後復興は今も世界の紛争地で復興の希望となっており、また中立な立場によって他の大国にはできない国際貢献ができるのだと言う。

この本は武装解除と紛争の再発防止、平和構築の活動の紹介を通して、これからの日本の国際貢献の方向性を問うものともなっている。あと、文庫版のあとがきの最後の一文に「夫と娘へ」と書かれてあって、本文にはそういうエピソードがまったくなかったため「いつ結婚したんだ?」と驚いたことも付け足しておく。解説は石井光太(作家)。

なお、著者が理事長をしているNPOのウェブサイトは下のとおり。

日本紛争予防センター(JCCP)

(5月3日読了)


2018.04.19

読んだ本3冊

4月19日(木)

2月から4月にかけて本を3冊読んだので、ここに短く感想を残しておきたい。いつもなら読んで数日後には感想を書くのだが、つい書きそびれてしまっていた。

1. 作:L.M.モンゴメリ、編訳:宮下恵茉、絵:景『赤毛のアン』(KADOKAWA)

ふだん愛読している作家が名作の翻訳を手がけたということで読んでみることにした。100年後も読まれる名作シリーズの第7作目。小学生向けのわかりやすい抄訳で字も大きく、絶妙な場面にイラストがあって読む理解を助けてくれる。それでいて大人が読んでも感動的な物語に仕上がっていた。


(2月8日読了)

2. 望月拓海著『毎年、記憶を失う彼女の救いかた』(講談社タイガ)

モーニング娘。'18の尾形春水が読んで感動したとブログに書いてファンの間で話題になった作品。第54回メフィスト賞受賞作。純愛物語なのだけど謎解きミステリーの要素もあって、飽きずに読み進めることができた。脚本家出身だけあって人物に生身感があって、伏線の張り方もうまい。ただ小説としてはやや不格好な印象。


(3月9日読了)

3. カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『忘れられた巨人』(早川書房)

昨年のノーベル文学賞受賞作家の最新長編。6世紀頃のブリテン島を舞台にした老夫婦の物語。アーサー王伝説を下敷きにしたファンタジーだが、ファンタジーとしては尻切れな感じがする。この作品は著者の文学のテーマである記憶を巡る物語でもあり、ファンタジーの形式を借りて民族の記憶の修正と忘却というより大きなテーマに取り組んだものと見たほうがいいのだろう。


(4月17日読了)


2018.02.18

菅野覚明著『吉本隆明―詩人の叡智』(講談社学術文庫)を読む

2月18日(日)

この本では、吉本隆明という思想家の本質は詩人であり、その思想の本質は詩であるということから出発して、初期の詩の分析から後の吉本思想の重要な概念である自己表出、指示表出、共同幻想、沈黙の有意味性といった概念がいかに生まれてきたかを詳しく論じている。

吉本は、敗戦後に社会の価値観が急激に転換する中で、青春期に詩作を続けながら試行錯誤して確立したつもりだった自己とはいったい何だったのかという精神的な危機に襲われる。だが、尊敬していた詩人・文学者・知識人たちは新しい価値観にあっさりと乗り換え、大衆も過去を忘れたように今の生活に埋没していく。吉本はもはや拠り所となるものが自身の詩だけであり、詩を書くという行為の中にしかないと思うようになる。

そうやって数年の苦闘の末に書き上げたものが『固有時との対話』である。この詩の分析にこの本では1章を充てて詳細に論じている。この詩は詩でありながら自身の詩についての詩論にもなっていて、この中に後の吉本思想のすべてが詰まっていると著者は言う。

わたしもその詩を読んでみたのだが、正直、何を書いているのかさっぱり理解できなかった。それはまるで吉本隆明という前衛芸術家の一人舞台を観ているような感覚だった。何を言っているのかセリフはまったく理解できないのだが、でも今、目の前で何かすごいことが起こっているといった感じだった。

この詩以降、吉本は詩作以外に文芸批評、政治評論の分野でも精力的に著作を発表し発言を続け、いつしか戦後思想の巨人とまで評されるようになる。吉本の思想はわかりにくいのになぜか多くの人を惹きつけてきた。わたしもその一人である。その魅力が自身の詩を源泉としたものだと考えると納得がいく。

(2月4日読了)


2017.12.12

山田英世著『J・デューイ』(清水書院)をよむ

12月12日(火)

この本は教科書で有名な清水書院からでているセンチュリーブックスの人と思想シリーズの1冊である。倫・社の副読本としても学校で採用されているようで、わたしも高2の時に『ラッセル』をよんだことがある。発刊は1966年でこの本は発刊の年にでている。著者は1922年生まれで82年になくなっている。師範学校教授、高校教諭、大学教授の経歴があり、倫理学が専門だったようである。

わたしがJ・デューイに興味をもったのは、Twitterで哲学者の鶴見俊輔botをフォローしていて、ひんぱんに名前がでてくるからである。あの鶴見が信望するような人物がどのような人物なのか興味がでてきて、とりあえず解説書をよもうとさがしたらこの本にいきついたわけである。

J・デューイがアメリカの哲学者・教育者であるためか、この本ではまずアメリカの地理と建国の歴史からはじまる。読者に優しい今風の思想解説書を読みなれていると、そこからやるのという気もするが、考えてみると、高校生の読者はアメリカの歴史をまだ習っていない可能性もあるから、どういう風土からアメリカの思想が生まれたのかを知るにはその方がいいのかもしれない。高校の副読本なら少々退屈な部分でもまじめによんでくれるだろうという期待もできる。

あと、当時の風潮なのか、主に動詞はひらがな表記になっている。また読み方にまよう漢字もできるだけひらがなにしてある。ひらがなにできなくて読みにくい漢字にはフリガナまでふってある。当時の文化人の中では漢字廃止論まであったから、ある時期に漢字をできるだけすくなくした表記をする学者がすくなからずいた。著者も当時の時代の影響をうけているようである。ちなみに今回はその表記をまねしてみた。

この本を最初から最後までていねいによんでいけばデューイの生涯とその思想を大まかに知ることができるのだが、思想の心酔者にありがちな、その思想が著者の思想なのかその思想家の思想なのかがよくわからないところもあって、やはりいずれは直接デューイの本をよんだほうがいいのかなとはおもう。

デューイは当時は進歩的文化人の元祖みたいな扱いで日本の教育界でも評判はよくなかったようである。学生運動でも進歩的文化人は攻撃の対象となった時代だった。その中であえてデューイをとりあげて高く評価しているところに、当時の著者の気概が感じられる。それに、左翼思想が退潮し切った今の日本においてこそ、デューイの思想は再検討されるべきなのかもしれない。そしてそれはデューイを高く評価していた鶴見俊輔や丸山真男など当時の進歩的文化人の思想の再検討をも意味する。そういえば、今年、進歩的文化人・吉野源三郎のかいた『君たちはどう生きるか』を原作とした漫画がブームとなったそうである。

(12月3日読了)


2017.10.30

制服論議より大切なこと(26歳の頃の文章―高校の職員会議にて)

10月30日(月)

最近、高校で地毛を黒髪に染めるように強要されたことに対して裁判を起こした女生徒のことがニュースになっていて、ふと、定時制高校で教員をやっていた頃に書いた文章のことを思い出しました。たしか1988年の9月に書いた文章で職員会議で配ったような記憶があります。当時26歳でした。すでに9月末に退職して青年海外協力隊に参加することが決まっていたので、最後のメッセージのつもりだったのでしょう。以下にその文章を載せておきます。ブログ用に改行の仕方などは変えましたが、誤字・脱字も含めて文章はそのままです。

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制服論議より大切なこと

7月の末から継続中の頭髪・服装指導も、制服を着てこない者は欠課扱いという大詰めの段階に入った。

今回の指導の背景には、「生徒が荒れている」という認識がある。その荒れを克服するために、まず服装を!という訳である。

だが、その考え方は、倒錯している。服装の乱れは、荒れの現象の1つにすぎない。現象の1つを叩いてもまた別の現象が吹き出してくる。イタチごっこを繰り返すだけである。

ではどうすればいいのか。

1.生徒会自治の大幅な拡大

今の学校には生徒同士の交流ができる場が乏しい。クラス全体で取り組む材料が不足している。そのため、クラスとはいってもグループに分かれていてバラバラである。

まず生徒の権限を拡大すること。その権限を使いこなせるよう教師の側から働きかけることが必要である。

楽しいことから始めよう。文化祭を本当の祭りにする。今年の文化祭は、3日間にする。祭りには一切の制約を外す。企画から実現までを生徒会の自治にまかせる。ロックは無条件に演奏できなければならない。模擬店をひらくのもいいだろう。(私は大学祭をイメージしている。ガラスが割れ、車が火を噴き、あちこちでケンカが起こる。3日3晩騒ぎまくり、死ぬほど酒を飲み、あの解放感は、もう2度と味わえない。)

2.生徒への問題提起・クラス討議・臨時生徒会

(1)生徒への問題提起

教師一同の署名を入れ、私たちが現在何を共通の問題としているのかを文書の形で生徒全員に提起する。その時、ただ問題を提起するだけでなくその解決案を出しておくことが重要である。

(2)クラス討論

その文書を元に、クラスで討議する。ここで結論を出すのではない。論議の土壌を作っておくのである。

(3)臨時生徒総会

全校生徒・全教師の参加による臨時生徒総会を開く。ここでは教師にも発言権がある。意見の交換の後、結論を出す。

.。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。


2017.10.24

仏教の入門書を2冊読む

10月24日(火)

仏教には以前から関心があって少しずつ本を集めているのだが、中々読めないでいた。今回ようやく入門書を2冊読むことができたので、感想を残しておきたい。

1.呉智英著『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房)

著者の職業は漫画評論家だが、東洋思想や日本の古典、キリスト教、現代思想と幅広い読書を重ね、その中で独自の思想を形成してきた。本書は、そんな著者らしく、仏教の特に哲学的な側面について様々な角度から検討している。著者は仏教徒ではなく、誰に遠慮する必要もないため、釈迦の教えの矛盾をはっきりと指摘する。

初期の仏教からやがて大乗仏教が生まれ、大乗仏教は中国への伝播と受容の過程で荘子の思想と混ざってしまう。中国経由で日本に伝わった仏教は、それゆえ荘子の思想が混ざった大乗仏教である。そして日本の土着の宗教とも混ざり合い、もはや釈迦の教えとは似ても似つかぬものになってしまった。日本の仏教が衰退しているのは、教えの原理的な検討がなされていないからではないかと著者は問題提起する。

かと言って著者は釈迦の教えに帰れと原理主義的な主張をしているわけではない。仏教の教えを仏陀の教えから検討することで仏教の更新が必要だと主張しているのである。

(9月23日読了)

2.釈徹宗著『とらわれない 苦しみと迷いから救われる「維摩経」』(PHP)

著者は浄土真宗の住職であるが、宗教思想の研究者でもある。そのため、著書には仏教の思想的な検討をしたものと宗教的な実践の方法を示したものとがある。住職であるにも関わらず、浄土真宗にはキリスト教的な救いの宗教の側面があることも指摘している。

この本は大乗仏教の成立の初期のお経である「維摩経(ゆいまぎょう)」を訳したものである。とはいえ全訳ではなく抄訳で、しかもかなりの超訳になっている。この本の目的は、大まかにお経の内容を伝えながら、大乗仏教の核心を伝えることにある。

維摩という人は在家信者なのだが、出家の菩薩様でもかなわない最強の在家信者という設定になっている。この人は世俗の中で暮らしながら、仏になる道を歩いている。その何事にもとらわれない生き方は、今の世を生きる私たちにも参考になるはずだという確信が著者にはあるようだ。

(10月17日読了)

2017.09.24

東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』(genron)を読む

9月24日(日)

先月末に読み終えてすぐ感想をブログに上げるつもりだったのに、なぜか自分の中で感想がしっくりまとまらないままに時間が過ぎてしまった。読み終えた直後は、哲学書にしては嘘みたいにわかりやすいと思ったのだが、1か月近く経ってみるとまるで霧の中にいるように内容が捕まえられない。やはりわかっているようで、よくわかっていなかったのだろう。なのでここでは感想というより読んだ印象を残しておきたい。それはひょっとしたらまったくの誤解かもしれない。

近代になって大衆が出現した時、知識人はその存在を概ね否定的に評価してきた。知識人にとって大衆は啓蒙すべき存在だった。

だが著者はむしろ大衆それ自体の中に新しい政治の可能性を見ている。そのキーワードが観光客という概念で、それは現実の観光客から哲学的に抽象した概念である。観光客は近代の旅行の大衆化の中で生まれた。その観光客の動きに世界を変える力を著者は見出しているように思える。

では、私たちがただ観光をしていれば世界は変わっていくのかというとそうではないと著者は言う。観光客という概念は現実を把握するためには有効な概念だが、それは行動の指針となる倫理的な概念ではないからだ。倫理的な概念については著者もまだ考えがまとまっていなくて、とりあえずの試論として出したのが「第2部家族の哲学(序論)」である。本書は2部構成で第1部が「観光客の哲学」なのだ。

かつて大衆を徹底的に肯定した日本の思想家に吉本隆明がいて彼は「大衆の原像」という概念を自らの思想の公理として選び取っていた。本書の「観光客」は「大衆の原像」の読み換えとも捉えることができて、だとすると展開次第では吉本思想の更新にもつながるのではないかという個人的な期待もある。

(8月29日読了)

著者 : 東浩紀
株式会社ゲンロン
発売日 : 2017-04-08

2017.08.25

過去の読んだ本の感想(シリーズ)9

8月25日(金)

..。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

1991年6月19日(水)
「妊娠カレンダー」の書き出し
(中略)

うーん。わからない。どこがいいんだ?
気になる所、
M病院。すぐ改行。会話の改行の仕方。基礎体温のグラフ。わたし。
愚図々々。とうとう。なかなか。
作者(わたし)は、姉がM病院に出かけて…いや、ちがうか。

色川武大の場合はどうだろう。
怪しい来客簿より
空襲のあと
(中略)

「が」が多いな。発想は突飛。でも、よく考えると、思い当たるフシもある。文章自体は、流れるよう。しかし、特に変わった点はない。

6月20日(木)

大江健三郎「懐かしい年への手紙」より
第一部
第一章 静かな悲嘆(グリーフ)
(中略)

森。谷間。妹。ギー兄さん。オセッチャン。ダンテ。事業。そして僕。

段落の構造
僕←TEL←(妹←会話←オセッチャン←→ギー兄さん)森のなかの谷間の村=こちら側

ギー兄さんのことを、オセッチャンの話を聞いた妹からの電話で僕が聞いたわけである。伝聞→物語の発生。ここですでに、この小説は神話性をおびてくる。しかも、ダンテだ。さらに2人の女=語り部=巫女の存在。

イメージの重層性が大江文学の特徴だが、それにしても、たいした念の入れようだ。イメージの洪水と言ってよい。

6月23日(日)

大江健三郎「静かな生活」(講談社)を読んでいる。心が浄化されるような小説だ。イーヨーと妹のマーチャンとの官能的とも言える交流。ワクワクさせられる。

10月8日(火)
今、川西蘭という小説家の「パイレーツによろしく」という本を読んでいる。わずか7年前の小説だが、すでに古びている。

12月1日(日)
読 「I will marry when I want」NGUGI wa Thiongo、NGUGI wa Mirii(Heinemann Kenya Ltd)
「現代アフリカ入門」勝俣誠(岩波新書)

どちらも一級品。読んだかいがあった。

「アフリカのこころ」土屋哲(岩波ジュニア新書)
いまいち。ちょっと古い。

12月8日(日)
読 「ハラスのいた日々」中野孝次(文芸春秋)、「治療塔」大江健三郎(岩波書店)

「治療塔」は、SFと純文学が融合したような不思議な感覚の小説である。数日前、新しく「治療塔惑星」という本が出たばかりだったので、前作を古本屋で買ってきたわけである。あいかわらずのイメージの洪水ではあるが、どうも異和感が抜けない。ハッキリ言って、胸の中をひっかきまわされるみたいな感じだ。SFの1人称か。何か変なんだよな。まだるっこしいぜ。

「ハラスのいた日々」も、オレにとっては新鮮だった。犬とヒトとの共生感覚。確かに、これは貴重なものだ。犬が今まで生きのびてこられたのは、このような関係が、ずっと続いていたからなんだな。なんか、うまく言えんが。昔、犬を飼ってた頃を思い出してしまった。

12月16日(月)
SIDNEY SHELDONの"THE OTHER SIDE OF MIDNIGHT"を読んでいる。plainなEnglishなので読みやすい。

..。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

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