宮下恵茉著『あの日、ブルームーンに。』(ポプラ社)を読む

5月21日(月)

この本のタイトルを見て、まずブルームーンって何だろうと思った。でもそのうちわかるだろうと読んで行くとやはり途中で説明があった。何でもひと月のうちに満月が2回見えることがあって、その2回目をブルームーンと呼ぶらしい。そしてブルームーンに願い事をするとその願い事がかなうという。

物語は中3の内気な女の子の胸がきゅんきゅんする初恋物語なのだけど、ただこの物語では、自分の恋の行く末を振り返る高3の主人公が最後に登場する。そしてこの物語のおわりは、新しい物語のはじまりを暗示している。まるで、月が新月となり、また新しい周期を迎えるように。

ブルームーンは元々、月が青く見えるという珍しい現象を指す意味しかなかったのに、ある天文雑誌の誤解から冒頭のような意味が加わったらしい。また、ブルームーンには様々なイメージが付加されている。

そのような多義的なイメージのタイトルのように、物語は誤解やすれちがいや困難の連続で進んで行く。この初恋はけっして簡単には成就しそうもない。それでも内気だった女の子は、いつしか必死になって問題に立ち向かってゆく。

児童文学ではえてして結末はファンタジーになったり、子供たちだけの努力で問題が解決されたりする。だが、著者の資質なのか、この物語はあくまでも現実の中で止まる。そしてその現実の中に希望を見出せるのがこの物語の特徴である。

(5月19日読了)

あの日、ブルームーンに。 (teens' best selections)

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

井上靖著『わが母の記』を読む

5月16日(水)

今、全国の映画館で上映中の『わが母の記』の原作。井上靖の実母の80歳から89歳で亡くなるまでの様子を描きながら、死や老い、家族について考えたことを綴った、著者曰く「小説とも随筆ともつかぬ形」の作品である。「花の下」、「月の光」、「雪の面」の3章があり、各章は、母親の80歳、85歳、89歳の時点で書かれている。

著者の母は老いとともに様々なことを忘れてゆく。今自分の言ったことを忘れて何度でも同じ話を繰り返す。やがて夫のことを忘れ、最近のことを忘れ、子供のことも忘れてゆく。それでも足腰は丈夫なものだから、子供たちは母親に散々に振り回されてしまう。

子供たちはそんな母親を見て、子供に還っているのだとか生きるのに不要なものがはがれていっているのだと話し合う。母親の様子は歳を取るごとに次第に変わってゆく。そんな中で、読者も老いとは何か、生きるとは何か、生きるのに必要なものは何かと様々な思いを抱きながら読み進めることになる。

映画の方は、幼少の頃に母に捨てられたと思い込んだ男が最後に母の自分への想いを知って救われるという話だったが、現実は身も蓋もなくて、母親は最後には何もかも忘れて死んでゆく。だが、それでもこの本の読後感がいいのは、この母親のような死も一つの良い死だからだろう。

今だったらこの母親は認知症と診断され、病院でベッドに縛り付けられたまま死ぬのかもしれない。この母親の老後を支え、このような死を支えたのは、かつての日本の家族だったのである。

(5月13日読了)

わが母の記 (講談社文庫)

映画『わが母の記』

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

的場昭弘著『超訳『資本論』』(祥伝社)を読む

5月8日(火)

これは、19世紀の巨大な思想家・マルクスの大著の代表作『資本論』を新書1冊にまとめた本で、『資本論』全3巻のうちの第1巻部分を本文の流れに即して解説したものになっている。『資本論』はマルクスが実際にまとめたのは第1巻だけであり、エンゲルスが編集した他の巻についてはあまり顧みられなくなっている。出版社の中には第1巻しか出さない所もあるくらいである。実際、第1巻を理解できれば、マルクスの思想は大枠で理解できたと言えるだろう。

私も学生時代にマルクスとエンゲルスの様々な著作を買った。『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』や『空想から科学へ』、『賃労働と資本』、『共産党宣言』、『経済学・哲学草稿』、『経済学批判』、『資本論』(第1巻部分のみ)などである。でも読み通したのは『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』と『空想から科学へ』だけで『資本論』も100ページくらい読んで挫折した。

当時からマルクスの思想や社会主義思想は古臭いと言われていた。私もわかったような顔をして旧左翼批判をしていたけど、実際は社会主義思想が何なのかよく理解できていなかった。資本主義は繁栄を続けており、社会主義国のソ連や東ドイツ、中国、北朝鮮は貧しい独裁国家で、人々に自由がなかった。一応、マルクスとエンゲルスの本くらいは読んどけみたいな知的雰囲気はまだ残っていたけど、私にはあえて全部読み通す気力がなかった。

やがて東ドイツとソ連が崩壊し、社会主義は完全に息の根を止められたように見えた。日本でも社会党が分裂し、旧左翼としては社民党と共産党だけが生き残った。私もマルクスや社会主義への関心を完全になくした。

だが、最近、資本主義自体も何だかおかしくなってきた。民主主義と資本主義という2本立てで世界は当分続くだろうと思っていたのに、どちらにもおかしなできごとが次々と起こってきた。日本国内では貧困と格差の問題が起こる一方、政府は財政難に苦しみ、自民党と民主党という2大政党が衆参でねじれたところへ東日本大震災が起こって、原発事故と津波による被災からの復興も中々進まない。こんなことは日本だけのことなのかと思ったら、アメリカやヨーロッパもかなりおかしなことになっている。

この本を読むと、マルクスはすでに19世紀後半の段階で、資本主義が行きつく果てにはそういうことが起こると、世界市場の規模で原理的に考察していたことがわかる。その考察の射程は21世紀の今に届いている。資本主義は、そのシステム自体にシステムを崩壊させる要因を抱えている。今まで、様々な経済学者がそのことに気づき、政府や国際社会の協調によって調整する方策を考えてきた。だが、ついに資本主義は果ての果てにまで近づきつつあるのではないか。

今、マルクスを読み直すことで何かが解決されるとは思えないけれど、資本主義というシステムが崩壊したあとにあらわれてくる未来社会のビジョンについてもっとも説得力を持っているのが、私にとって今のところ『資本論』だけである以上、とりあえず1巻だけでも読んでみるしかないなと思い始めている。その時に、この超訳本を読んだことがきっと役に立つにちがいない。

超訳『資本論』 (祥伝社新書 111)

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宮下恵茉著『真夜中のカカシデイズ』(Gakken)を読む

4月1日(日)

友達が作れなくて不登校になった男の子が真夜中に出会ったのは誰?児童文学作家の昨年4月出版の作。わたしはこの作家を知らなかったのだが、旧友がきっかけで興味を持って、どんな作品を書いているのか一つ読んでみることにした。

わたしが児童文学の魅力を再認識したのは、2004年に読んだLouis SacharのThere’s a boy in the girl’s bathroom.でだった。この作品は『トイレまちがえちゃった!』という翻訳も出ている。嫌われものの男の子が転校生と出会い、学校のカウンセラーと話す中で変わっていくという物語だった。主な読者が子供ということもあって読みやすく、それでいてわたし自身の生き難さの問題にも届いており、児童文学っておもしろいと改めて気づくきっかけとなった。

『真夜中のカカシデイズ』の主人公は内気な中1の男の子で、いろいろな出来事が積み重なってついに不登校になる。その子がどうやって立ち直っていくのか。この物語を読み進む中で、子供だけでなく大人も自分の問題と向き合うことになる。自分の気持ちをごまかさないで見つめることの大切さを、友達がいなくてさびしいのならそれを何とかできるのは自分だけであることを、この本は優しくユーモラスに、そしてちょっぴり厳しく教えてくれる。

しかしカカシってよく…いや、これ以上言うのはやめておこう。

真夜中のカカシデイズ (ティーンズ文学館)

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デイル・ドーテン著、野津智子訳『仕事は楽しいかね?』(きこ書房)を読む

3月24日(土)

自己啓発書やビジネス書のような類の本は内容の薄いことが多く、最近はあまり読むこともなかったのだが、タイトルに惹かれて読んでみる気になった。主人公は中堅のビジネスマンで、5月の大雪で空港に足止めを食らった時にマックスという名の老人と出会う。マックスは発明家・起業家として有名な人だった。彼は主人公と一晩語り合う中で、主人公にビジネスの極意を授けてくれる。それはビジネス書によくあるような教えを否定した、一見するとシンプルな極意だった。

毎日変わり続けること。そのために自分の仕事の内容を徹底してリスト化すること。そのリストを常に更新し続けること。その結果出てきたアイディアを常に試し続けること。

極意と言えるのは要はこれだけだから、例によって内容の薄い本と言えなくもないけど、これは試してみる価値のあることではある。社会で成功した人は、実は人一倍失敗した人でもある。それは日本のように失敗を許容しない社会においても、成功者の一人一人をよく見ると確かに当てはまっている。

いろいろなアイディアを試してみる。そのアイディアのヒントは今やっている仕事の中にある。十中八九は失敗するが残りが成功であればいい。わたしもさっそく自分の仕事をリスト化してみることにしよう。

仕事は楽しいかね?

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

石井光太著『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)を読む。

3月22日(木)

2011年3月11日、宮城県沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北太平洋岸は高さ10mを越える津波に襲われた。東日本大震災と命名されたこの震災の死者、行方不明者は約2万人。1年を過ぎた今も正確な数は確定していない。

著者は3月14日にはすでに被災地に入っている。取材の過程で、数多くの無残な遺体と取りすがる遺族の姿を目にする。その中で、この無残な死を被災地の人たちが受け入れない限り復興はないと思うようになる。釜石市は市の半分が津波の被害を受けなかったため、市民たちが中心になって遺体を取り扱っていた。著者は釜石市の遺体を追うことにする。

様々な登場人物が現れる。民生委員、医師、歯科医、歯科助手、市の職員、海上保安員、自衛隊員、消防署員、消防団員、市長、住職、葬儀屋など、彼らのしたことが重ね合わされて、遺体の発見、安置所への搬送、安置所での取り扱い、埋葬までの過程があぶり出される。だが、著者は様々な登場人物の中から、民生委員の千葉淳を最初に登場させる。

わたしは、この人が釜石市の「おくりびと」として描かれていると感じた。彼は葬儀社に長く勤め、今は引退して民生委員をして暮らしている。その彼でさえかつて見たことのなかった数の遺体と遭遇する。その遺体への乱暴な扱われ方に心を痛め、自ら進んで安置所の遺体の扱いを引き受ける。

千葉の遺体の取り扱いは、生者に対するものと同じである。遺体にも尊厳があり、尊厳を損なう行為は決して行わない。また、遺族に対してもそうである。肉親の死によって遺族の心が損なわれることのないように言葉をかける。遺族はその言葉に慰められ涙を流す。

釜石市では千人を越える遺体を市民の働きによってきちんと弔うことができた。わたしは、このことで釜石市は復興への道のりをしっかり歩んでいると確信できる。これは震災に限った話ではない。人は遺体をきちんと弔うことができて初めて先に進むことができるのだ。

この本を読み始めた頃、ルポルタージュなのになぜ写真が一枚もないのか不思議だったのだが、おそらく写真だと遺体の尊厳を損なうからなのだろう。つまり、この本も鎮魂の書なのである。

(3月19日読了)

遺体―震災、津波の果てに
読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

常岡浩介著『ロシア 語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書)を読む

3月2日(金)

著者はフリーランスのジャーナリストである。一昨年の4月から、アフガニスタンでタリバンを自称するグループに約半年間拘束されたことで、一躍有名になった。わたしが著者の名前を知ったのもその事件がきっかけで、拘束直後に著者のTwitterアカウントをフォローした。無事帰国後は精力的にツイートしており、そのオタク的なツイートが実におもしろい。

著者は長崎県の島原市出身で、早稲田大学を卒業後、1994年からNBC長崎放送局の報道部記者になっている。わたしも長崎県出身なのだが、その感覚では、早稲田を出てNBCに入社というのは地元のエリートコースである。

しかし著者はその地位を捨て、98年からフリーランスのジャーナリストになる。そして99年11月には、この本の舞台であるチェチェンに現れている。イスラムに改宗しチェチェンゲリラの戦闘作戦に命がけの従軍をするのは2000年から01年にかけてである。いったい著者に何があったのかにも興味を引かれるが、残念ながらそのことは語られていない。

この本では、ロシアとトルコの間、黒海とカスピ海に挟まれた小国チェチェンと大国ロシアとの戦争が描かれている。この戦争は、その凄惨さや期間の長さの割に驚くほど知られていない。その理由としては、その地域がヨーロッパからも中東からも離れた地域にあって関心を抱かれにくいということに加え、ロシアの諜報戦によるものであることも指摘されている。

そのため、この本では、チェチェン戦争のことだけでなく、その周辺で起こった劇場占拠事件や学校占拠事件などの大きな事件についても取材し、そこでのFSB(ロシア連邦保安局)という諜報機関の暗躍を追及している。巻末には元FSB中佐で2006年に暗殺されたリトビネンコへのインタビューも収録されている。その内容は恐るべきもので、プーチン前大統領の犯罪を追及するものともなっている。

表題の「語られない戦争」には、だから、二つの意味があると言えるだろう。今まで誰にも語られなかったという意味と、プーチンに権力のある間はまだ語ることができないという意味とである。著者の記述は、その二つの「語られない」ことの間で揺れ動いているようにも見える。

(2月28日読了)

ロシア 語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記 (アスキー新書 71)

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勝川俊雄著『日本の魚は大丈夫か 漁業は三陸から生まれ変わる』(NHK出版新書)を読む

2月16日(木)

この本の著者は、三重大学生物資源学部准教授で、専門は水産資源管理と資源解析である。

この本を読むまでよく知らなかったのだが、著者によると、日本の漁業は衰退の一途をたどっているらしい。見かけだけ立派な漁港はあっても、乱獲による漁獲量の減少と未成魚乱獲による魚価の低下のために、漁師からスーパーの販売まであらゆるルートで誰も利益をあげていない。今、漁業が生き伸びているのは、莫大な補助金をもらっているからだという。

しかし著者は、日本の漁業は生まれ変われると主張する。そのためには、ノルウェーを始めとする先進的な漁業資源管理の方法を日本に導入することが必要だと言う。国による漁師一人あたりの漁獲制限と漁業組合による適切な経営によって、日本の漁獲量は回復するはずだと言う。

確かに著者の主張は理にかなっている。このままだと日本の漁業は20年もしたら滅びてしまうかもしれない。だが、今、日本のあらゆる分野で起こっていることと同様に、ここでも既得権益の壁が立ちふさがる。

著者は東日本大震災後の三陸の現場に立ち、現地の漁師たちの話を聞いて、逆にすべてが破壊された三陸の地だからこそ、漁業の再生は可能なのではないかとの想いを強くする。漁業の復興は元に戻すことではなく、新しい形に変えることである。それは今の三陸だからこそできることであり、三陸がモデルになって日本全体の漁業も変わることができれば、日本の漁業は生まれ変われる。著者はそのための具体的な方策も提案している。

この本の第六章では水産物の放射能汚染について割いている。放射能汚染については著者は門外漢らしいが、よくまとまっていて、わたしたちが水産物を買う時の判断の材料になる。また、著者はウェブサイトとツイッターでの発信も続けていて、最近は水産物の放射能汚染の話題が多いようだ。サイトのリンクとツイッターアカウントは以下の通りである。

公式サイトhttp://katukawa.com/
ツイッターアカウント @katukawa

(2月13日読了)

日本の魚は大丈夫か―漁業は三陸から生まれ変わる (NHK出版新書 360)

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東浩紀著『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社)を読む

2月11日(土)

情報技術の発展に伴う、今までとは異なる形の民主主義の可能性について論じた本。

わたしたちは現在の民主主義がうまく機能していないことを感じている。著者はその感覚がどこから来るのかを原理的に解明しようと、民主主義の祖であるルソーから論じ始める。そして、ルソーの『社会契約論』にある一般意志という概念を読み変えると(一般意志2.0)、それがグーグルのような情報技術(ウェブ2.0)によって可視化されて、民主主義がアップデートされる(民主主義2.0)可能性があることに思い至る。

それは今の民主主義を否定するものではなく、アップデートするものである。フロイトの精神分析のように、一般意志(無意識)が可視化(意識化)されれば政治はより正常化される。政治に民意がより反映され、ファシズム的なカリスマの暴走も制御できる。だからと言って、今のニコ生やTwitterが一般意志を可視化しているかというと、著者はその可能性を論じつつも、このままでは不十分と見ている。可視化のためには一般意志2.0のための新しいプラットフォームが必要なのだ。

ウェブ2.0によって一般意志2.0を組み込んだ民主主義2.0が実現される。その社会は、ローティの言う「リベラル・ユートピア」のようなものになるだろうと著者は言う。この本では抽象的に論じているため、具体的な展開がどうなるかはわからない。でも、今の政治に対してわたしたちが漠然と感じていた不満のありかとこれからの政治の方向性を原理的に示してくれた点で、この本はルソーの『社会契約論』のように革新的なものであると言えるだろう。

(2月1日読了)

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

読み助の本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画『ALWAYS 三丁目の夕日'64』を観る

2月1日(水)

映画の日の今日、新宿ピカデリ―で『ALWAYS 三丁目の夕日'64』を観てきた。3Dの方を観たため2千円したけど、VFXを駆使した映画なので3Dで観ないわけにはいかなかった。

映像は1964年の東京を見事に再現しており、東京タワーが完成し、東京オリンピックのあった年に、わたしもいつのまにか入りこんでいた。

だが、それは必ずしも過去を懐かしむことだけを意味しない。1964年の登場人物たちは未来を見ており、わたしもその中で未来を見るような気持ちに自然となる。そして、その未来が2012年の現実の日本ではないことに気づく。登場人物たちはあくまでもその時点の延長として未来を見ているので、現実の未来とは見ている方向がちがうのだ。

そしてそれは映画を観終わって、2012年の現実に戻っても感覚として残ることになる。わたしは現実に戻っても、あいかわらず未来を見ていて、それは当然今ではなく、これからの未来である。

そこでわたしは、その未来が1964年に反転されて見えるという不思議な感覚を味わう。1964年は大空襲の廃墟から東京が復興を始めて19年後のことである。1年前、わたしたちは東北沿岸を地震と津波と原発事故で失うという大きな経験をした。つまり1964年はわたしたちの18年後の未来を示しているという感覚なのである。

そういう意味では、最新のVFXを使って過去を忠実に再現したように見えるこの作品は、実はわたしたちのありうべき未来を示しているとも言える。そこにある未来像に、わたしはこれからのこの国の希望が見えるような気がした。

ALWAYS 三丁目の夕日'64

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«マリアン・デレオ著『チェルノブイリハート』(合同出版)を読む。